2026-03-01から1ヶ月間の記事一覧
今日は、心理学というよりはエッセイ寄りの内容を。「分かり合える」という感覚について、少し書いてみたいと思います。
どんな見方であっても、自分を責めることに使ってしまっては、意味がありません。「その見方は、自分に対して愛があるのか?」という問いかけを持つことは、大切なことです。
時候は「春分」の中ごろになりました。七十二侯では、「桜始開(さくらはじめてひらく)」。まさにその通りで、各地で開花宣言から、桜の見ごろの報せが聞こえてくるようになりました。
執筆しながら、いつまでこうして書かせてもらえるのかな、と感じます。AI全盛のこの時代に、人間が文章を書く意味って、なんだろうと考えるのです。
「投影」の視点を使うと、相手の言動から自分が自分をどう扱っているかが見えます。しかし、だからといって、その相手の言動に必要以上に責任を持つこともないのです。
周りの人から、自分がどう扱われるかは、自分が自分をどう扱っているかと関係しているという見方があります。ただ、あまり重く受け止め過ぎず、「そうかもしれない」という軽さもまた、大切です。
自分が自分をどう扱っているかに気づくためには、他人からのフィードバックが欠かせません。そして、投影の視点を使うと、そのフィードバックが得られるのです。
自分自身は、自分の味方でありたいものです。ただ、そうするためには、自分自身の扱いを「気づく」ことからはじまります。
文筆家・心理カウンセラーの大嵜直人のブログにお越しいただき、誠にありがとうございます。4月度の個人カウンセリングを募集いたします。お申し込みのほどを、心よりお待ちいたしております。
今日はなんでもない、エッセイです。身体のことなんですが、強さとしなやかさのバランスを保つ、というテーマです。
時候は「春分」を迎えました。昨年12月の冬至から徐々に長くなってきた昼の長さは、春分を迎えてちょうど夜の長さと同じまでになりました。
ご縁をいただいております、競馬コラム&ニュースのウマフリ様で、今週のニュース記事を執筆させていただきました。
自分自身にかける言葉は、私たちのセルフイメージに大きく影響します。その言葉を変えていくことは、自分自身を変えていくことでもあります。
相手とつながるためには、まずは自分が自立することが必要です。ほんの小さなことからでも、自分で自分を満たすことが、大切なことなのでしょう。
「寂しさ」を埋めるために、相手を求めると、なかなかうまくいきません。そうではない、つながりを求めるというイメージについて、お伝えします。
自立的な人は、依存的な自分を嫌いますから、「寂しさ」もまた避けてしまうものです。けれども、「寂しさ」は弱さではなく、周りとのつながりを生む大切な感情です。
七十二侯では、「菜虫化蝶(なむしちょうとなる)」。その字の通り、冬を越したサナギが羽化して、蝶になるとされる時期です。蝶の羽化、春を感じさせる風景ですよね。
「寂しさ」を癒すのは、外側からやってくる何かではありません。それを感じ尽くした先に、内から湧き上がる愛が、「寂しさ」を満たすのです。
「寂しさ」は、感じることもまた難しいものです。ただ、感じることで癒すことができるものでもあります。
「寂しさ」は、誰にとってもあまりみたくない感情です。その本質は、自分自身とのつながりが切れていることであり、それはどこかで抑圧してしまった感情が引き起こすものです。
「自立と依存」の問題の根源には、寂しさがあります。その寂しさと向き合い、癒していくことが、真に自立していくために必要なことです。
自立しているように見えても、その裏側に満たされない依存心がくすぶっている場合があります。この「自立の依存」の問題と、その癒し方についてお伝えします。
私たちの心は、依存から自立へと成長していきます。その過程では、依存をどう扱うかが大切なことです。
時候は「啓蟄」を迎えました。土の中で巣ごもりをしていた虫や動物たちが目覚め、地上に出てくるころとされます。
3月、弥生に入りました。日によっては、日中はずいぶんと暖かい日も出てきました。そんな弥生のはじめ、熱田神宮に参拝することができました。
自信を持てないとき、どうしても相手にいろんなものを委ねてしまいがちです。依存心が残っているとそうなりやすいので、まずは自立することが求められます。
感情的に揺れないのが、自信ではありません。感情的に揺れても、それを自分自身が受け止めることができるのが、自信です。
「自信」とは、強さからくるものではありません。むしろ、弱さも含めたいまの自分を受け入れることから生まれるものです。
自信とは、自分を肯定する、愛することと、それをベースにした行動や経験の掛け合わせです。こうした自信を持つことができると、たとえ望まない結果が出たとしても、それは失敗ではなくなるのです。
あれほど待ちわびた梅の花もまた、散ってゆく。毎年繰り返される摂理ではありますが、それでも毎年、感傷的になるものです。