大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

やさしい心理学

自ら選んでいないものを受け入れることで、私たちは自立を手放していくことができる。

自分で選んだことに責任を持つのは、「自立」です。それはとても素晴らしいことですが、自分で選んでいないことを受け入れていくことは、私たちをさらに成熟させてくれます。

自分が選んでも望んでもいないのに与えられた資質や才能を、受け入れるためのヒントについて。

「才能」があるがゆえに思い悩んだり、自分を責めたりすると、「そんな才能なんて要らなかったのに」と感じることもあるのでしょう。そんなときに、考えてみたい視点をお伝えします。

「才能」が生まれる場所 ~「平和の天使」の深い葛藤とは

「才能」があるがゆえに、私たちは葛藤もするし、悩みもします。しかし、いつかはそれを受けとり、感謝できるようになるものです。

そこに才能が「ある」がゆえに、悩みもするし、自分を責めたりもしてしまうもの。

自分の価値や才能と聞くと、「好きなこと」や「興味があること」をイメージされるかもしれません。しかし、本質的な部分での才能とは、それが「ある」がゆえに悩みもするし、自分を責めてしまったりもするものです。そうした才能の持つ性質について、お伝え…

自分の価値や才能は、北極星のようにいつもそこに「ある」もの。

受けとろうが、受けとるまいが、自分の価値や才能は、そこに「ある」ものです。それは北極星のように、いつも私たちの歩く道を照らしてくれます。

自分の価値を知ったら、あとは受けとれるように「お祈り」してしまおう。

自分の価値や魅力、才能といったものは、それを受けとろうとすればするほど、抵抗が出てきたりします。それらを知ることができたら、あとは受けとれるようにお祈りしてしまいましょう。

「問題」とは、それを解決するためにあるのではなく、自分の価値に気づくためにあるもの。

私たちは「問題」に出逢うと、それを解決する方法だけに意識が向いてしまうものです。しかし「問題」とは、それを解決するためにあるのではなく、自分自身の価値に気づくためにあるものです。

周りの人が持っていると感じる長所は、そもそもあなた自身が持っているもの。

私たちは、自分のなかにないものを、外の世界に見ることはできません。周りの人が持っていると感じる長所や価値、才能は、自分自身が持っているものといえます。

自分の価値や才能を知るための2つの方法。

自分のことは、一番自分が分かっていないものです。そんな自分の価値や才能を知るための2つの方法と、それを受けとるためのヒントについてお伝えします。

自分の才能に無自覚でいると、自分は消耗し、周りとの葛藤を生んでしまうから。

自分の価値や才能に無自覚でいると、周りとの葛藤を生んだり、必要以上に消耗してしまったりします。その才能を受けとるには、「誰に分け与えていきたいか」を考えることが大切です。

「助けられなかった」という罪悪感があるのなら、「助けたい想い」を求めている人に向けてみませんか。

「助けられなかった」という罪悪感の裏側には、「助けたい」という才能レベルともいえる強い想いがあるものです。それを無自覚に使うのではなく、それを求めている人に向けてみてはいかがでしょうか。

ほんの小さな過ちをしたら、愛を受けとってはいけないという大きな誤解。

私たちは、ほんの小さな過ちをしたら、もう愛や幸せを受けとってはいけない、と思ってしまっていることがあります。それは、正せばいいだけの小さな過ちを、大きな罪として捉えているからかもしれません。その誤解を抜けだすカギは、無邪気さです。

「誰かを傷つけてしまった」という罪悪感との向き合い方。

「誰かを傷つけてしまった」という罪悪感は分かりやすく、それだけに強烈なものです。そうした罪悪感を癒していくための視点について、考えてみます。

「正しさ」の裏側にある傷と、大切にしたかったもの。

正しくあろうとするほどに、私たちは生きづらくなります。「正しさ」は手放していくべきものですが、その裏側にある才能や愛を見つめていくことが大切です。

自分が信頼できないときは、いまできることを積み重ねていくしかない。

自分を信頼できていないとき、私たちの意識はいまここにはありません。その意識を引き戻すためには、いまできることを積み重ねていくしかないようです。

「いい自分」と「悪い自分」を判断している基準から、見えてくるもの。

私たちは、自分自身を「いい自分」と「悪い自分」に仕分けをしているようです。そのいい・悪いの判断をしている基準の裏側には、傷ついた経験があり、そしてその底には大切にしたかったものが見えてきます。

「自分だけが助かってしまった」という罪悪感と、その向き合い方。

「自分だけが助かってしまった」という罪悪感があります。そうした罪悪感がもたらす感情と、その向き合い方について考えてみます。

自己否定のルーツには、あなたが守りたかったものがあるのかもしれない。

誰もが自己否定をしたいわけではないですが、そうせざるを得なかったできごとがあったりするものです。そのルーツは、少し見方を変えると、あなたが人生をかけて大切にしたかったものを教えてくれることがあります。

「癒し」を止めるものは、自己否定と自己不信。

私たちには、自分自身を癒していく力が備わっています。しかし、その力をせき止めてしまうのが、自己否定と自己不信です。

「時間」という癒しの力があるから、今日できることをすればだいじょうぶ。

「時間」というのは、偉大な癒しの力を持ちます。それは、自分が自分を癒していく力を信じることと、同じことです。

「癒し」とはOSをアップデートするようなものであり、オーダーメイドなもの。

「癒し」とは、スマートフォンのOSをアップデートするようなものといえます。そしてそれは、あなただけのプロセスを進むものです。

「癒し」からの変化は、それまでの自分を否定しない。

自己否定から自分を変えようとすると、なかなか続かないものです。しかし、「癒し」が起こると、それまでの自分を包含した変化が起こります。その変化は、根源的で永続的なものです。

癒されて半分。残りの半分は、癒された自分を分け与えてこそ。

「癒し」とは、ものごとの見方がポジティブに変わることを指します。そして、その癒された自分を分け与える意識を持つと、「癒し」を深めていくことができます。

あなたの体験が、輝くとき。

心理学に限らず、なんらかの「学び」は、自分自身の体験を通じることで、はじめて形になっていきます。そして、それを分け与えようとするとき、その体験は光り輝くのです。

「見捨てられた」という怒りに気づくとき ~大嵜直人の場合

「見捨ててしまった」という罪悪感の裏側には、「(自分が)見捨てられた」という怒りがあります。具体的に、私自身がその怒りに気づいた経験を、お話してみたいと思います。

「見捨ててしまった」という罪悪感の裏側にひそむ、「見捨てられた」という怒り。

「見捨ててしまった」という罪悪感の裏側には、「(自分が)見捨てられた」という痛みがあります。この痛みを癒していくと、「見捨ててしまった」という罪悪感も薄まっていきます。

「人よりも恵まれている」という罪悪感を癒すためには、ある種の「諦める」感覚が大切。

「人よりも恵まれている」という罪悪感を癒すには、自分の価値や才能を「受けとる」ことが王道です。しかし、それが難しいときは、「諦める」という視点を持ってみてはいかがでしょうか。

「助けられなかった」という罪悪感は、助けられる力や資質を持つ人だからこそ持つもの。

「誰かを助けられなかった」という罪悪感は、非常に強烈なものです。しかし、誰かを助けようとできるのは、助けられる力や資質を持っているからこそ、という視点を持ちたいものです。

愛を受けとるための「器」の広げ方。

70億の人がいれば、70億の「愛し方」があります。その愛を受けとるための「器」を広げるには、どうしたいいかを考えてみます。

「言わない」ことで伝えようとする愛の形も、ある。

「自分の気持ちが言えない」という悩みの裏には、「自分は汚れている」という罪悪感があったりします。「どうやったら言えるようになるか」も大切ですが、その前に「言わないことで愛を伝えようとしてきた自分」を認めてあげることをおすすめします。