今日もお越し頂き、ありがとうございます。
今日はとってもいい野菜が入りました。
葉物は少し蒸して柔らかくして、アンチョビたっぷりの「バーニャ・カウダ」にして、ぜひどうぞ。
美味しいものと、心に留まる言葉をお出しすることが当店の目指すところですので、そこが合っていれば何でもOKです。
今日のテーマは、そんな「決める」ことについての言の葉を。
「千と千尋の神隠し」に見るコミットメントの効用。
優れた作品は、受け手にさまざまな解釈を許してくれる。それはクリエイターがその作品に埋め込んだ意図を、一つ一つ紐解いていくようで楽しい。
もちろん人がある作品から何を受け取るかは、その人の心象風景の投影とも言えるので、自分の見方はやはり偏る。だから他人の批評を読むのは楽しい。
物語の序盤、神々への供物を勝手に食べてしまったことで千尋の両親は豚にされてしまう。訳も分からぬ中、少年「ハク」の導きで「油屋」に身を寄せる。「油屋」の女主人で魔女の湯婆婆の前で、千尋は震えつつもこう言う。
「ここで働かせてください」
「ここで働きたいんです」
恐ろしい魔力で恫喝する湯婆婆だが、千尋は怯まずに働きたい、と伝え続ける。
「ここで働かないとだめなんです」とか、「ここじゃなきゃいけないんです」という義務や恐れが、そこにはない。
これこそ、コミットメント。
肚をくくった者が口にできる台詞。
私が目の前の問題に、肚を据えて向かい合う覚悟。
なんで私が働くの?
本当に両親を救えるのだろうか?
働くって、何をするの?
そもそもハクとかいうあの少年を信じても大丈夫だろうか?
もとの道を辿って逃げた方がいいんじゃないか?
考えれば考えるほど、「油屋」で働くことは怖く、非合理で、意味のないことのように思える。
けれど千尋は自らの運命を信頼し、受け入れる覚悟を持つことで、そうした雑念を取り払ったように見える。今自分の置かれている、非常識な世界を否定するのではなく受け入れようとする態度。根本にあるのは、両親を救いたい、という強い想い。
それはとりもなおさず、自らの歩く道を、自らが決めようとコミットした瞬間なのだろう。
物語冒頭の車の中で千尋が見せる、両親の都合で引っ越し=転校になり不満やるかたない表情と、この湯婆婆と対峙するときの表情の差が鮮やかだ。想いは人を強くする。
さて、こうしてコミットメントをしていると、奇跡としか思えないようなことが起き、問題はスルスルと解決に向かう。
リンさんや釜じいのような力を貸してくれる人たちが現れたり、千尋を慕うカオナシが一波乱起こしてくれたり、あとの流れはご存知の通りである。
物語のハイライトは、この湯婆婆との対峙で見せた千尋のコミットメントだと私は思う。
どんな状況でも、肚をくくって信じれば大丈夫だよ。
そんな作り手のメッセージを勝手に受け取っている。そうした自由を与えてくれるのは、やはりこの映画が優れた作品だからなのだろう。
2017.10.7
スタジオジブリの名作映画、「千と千尋の神隠し」に寄せてですね。
邦画の歴代興行収入最高記録を持っている映画だけあって、さまざまな文脈でさまざまな解釈がされていますが、今日は「コミットメント」という視点から。
「コミットメント」とは、一言で表すなら「肚をくくる」ことです。いまある問題に対して、しっかりと腰を据えて向き合う態度とも言えます。
これは、問題解決に向かうにあたって最初に目標とするべき意思表示です。
件の映画の物語の冒頭から、千尋の周りにはたくさんの理不尽なことが起きます。両親の引っ越しにともなう転校、そして連れられて入った世界で両親は豚にされ、「油屋」という屋敷に連れ込まれ、ここで働くしかない、と謎の少年に言われる。
翻ってみると、往々にして私たちにも同じようなことが起きます。
なんでそんなことが起こるの?
そんなこと望んでないのに。
私が悪いワケじゃないのに。
なぜそんな理不尽なことが? ・・・などなど。
もちろん被害者となって、彼氏や両親や社会や上司や、あるいは神さまや、いろんな対象を責めることもできますし、責めたくなるのが当然でしょう。
しかし周りの責任にする他責の状態では、問題解決は相手次第になってしまいます。他責は依存と呼び替えることもできますね。解決するもしないも、相手次第の受け身の状態は、辛いものです。
その責めたくなる気持ちを、「自分がこうしたい」という方にエネルギーを向けることが解決への第一歩となります。
どうしようもないけれど、もうこれは私の問題なんだ。
と、ある意味で降参して、肚をくくること。
それは、自らの器と問題の大きさがぴったりと嵌る瞬間なのかもしれません。
もちろん、急にそこには行けません。
さんざん周りのせいにして甘えて、頼って、ダメな自分を見て、依存してようやく立ち上がることが出来ることも少なくありません。
けれど、それができれば、千尋がそうであったように、見知らぬ人が誰もいない世界に迷い込んでも、恐ろしい魔女に恫喝されても、どんなに不安や怖れが来ても乗り越えられる強さが心に根を張ります。地に足をつけ、自らの歩く道を信頼することができれば、その不安や怖れの向こう側に確かな光明を見出すことができます。どうなるんだろう?と思いながらも、きっと大丈夫だと、その先の未来を信じることができるようになります。
肚がくくれると、なぜか大きくプロセスは動き出します。
千尋の周りの環境が、「働きたい」と宣言してから大きく動き出したように。
そしてプロセスが動き始めると、肚がくくれている分だけ、一連の流れを楽しむこともできます。解決までのプロセスを楽しめるようになるのですね。
物語中盤以降、千尋の表情にどんどん笑顔が増えていくのを見ると、歯を食いしばって必死になって登るよりも、途中の風景を楽しんだり時に休憩したりしてすることが、目標を達成する一つの秘訣のように見えますね。
目標、あるいは夢は悲壮感を嫌う。
そんな言の葉がその中盤以降の千尋を見ていると思い浮かびます。
肚をくくること。
理不尽ないまを、受け入れること。
誰のものでもない自分の物語だと、自らの生を受け入れること。
それこそが、千尋が両親を救い出すために最も必要なことのように、この映画は感じさせてくれます。
秋の夜長に、ぜひ肚をくくった千尋の旅をまたご覧になってはいかがでしょう。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。