他者に評価や承認を求めると、それが与えられれないと感じたときや周りとの比較で苦しくなります。それを避けるためには、自分のブログなりのアーカイブを見てうっとりするアホになることが必要かもしれません。
連休から始めたブログについて考えるシリーズ。
今日はブログを書いていく中でどうやってもついてまわる、他者からの評価について考えてみます。
自己表現をしていくと、読者からのリアクションはどうしても気になりますね。
私もそうで、やはりアクセス数や感想はすごく気になります。
アクセスやいいね!、ハートマークが多ければ「いよっ、大統領!」、少なければBGMが「昭和枯れすすき」。それが人情というものでしょう。ただ結果としてのそれは真摯に受け止めるべきだと思うのですが、過剰に一喜一憂していると続けるのが苦しくなります。
ブログに限らず、他者からの評価、承認は似たようなものです。
一度でも他者に認めてもらえると、ずっと認めてもらえるような感覚になってしまったり、否定的な意見を頂くと、まるで自らの人格の全てが否定されたように感じたり。
はい、私もまだまだ耳の痛いお話です。
自分は自分、他人は他人。
その線引きを明確にしないと、書き続けること、表現し続けることは難しくなります。
読者は読者。
私の意見に100%あますことなく賛成や同意してくれる人は、恐らく世界中を探しても一人もいないのでしょう。あくまで、どこかの一部の領域を「これはええね、供花んでるわ」とすくい取ってくれるだけに過ぎません。
わが身に振り返ってみてもそう思います。
身近な人のここは称賛できるけれど、こっちの考え方は賛成しかねるな、とか。結構これって仕事やビジネスの上では簡単にできる傾向にあるんですが、こと友人やパートナー、家族といったプライベートな関係になってくると、途端に難しくなります。
ともあれ、他者からどう思われようが、私はこう思う、私はこれが大事だ、私はこれが大好きだ、ということを投げかけ続けること。それが続けられる自分を承認するとき、承認されたいという欲求は満たされます。
外を探すと一時的に満たされることはあっても、どこかで何かのきっかけで「こんなはずじゃなかった」と振り回されることになります。一方、自分の内面を探していくと、尽きることのない永久機関のように満たされることができます。
だから、他者承認が欲しくなったら、視線を内側に向けましょう。もしあるなら、自分のブログなりSNSなり日記なりのアーカイブを訪ねて、しばしうっとりしましょう。
結構いいこと書いているやん、私。
伝えたいことがバラバラに見えるかもしれへんけど、熱量は伝わってくるわ。
これ書いたとき結構忙しかったと思うけど、頑張って書いたがね。
そんなアホになれたら、もう満たされていますね。
さて、今日はそんな自己表現と他者承認の言の葉を。
いいね!とアクセス数。
気になるのが人情。
他社承認の蜜は、やはり甘くてクセになる。自宅での焼酎ストレートの晩酌みたい。
SNS始めて半年。
ブログ書きはじめて2カ月。
なおさらそう思う。
いいね!やアクセスが5だと10がうらやましくなり、10だと100がうらやましくなる。100になったらなったで、きっと1000がうらやましくなる。
千、万、億、兆、京。
そのあとはwikiセンセに聞いたら、
垓、𥝱、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数。
こりゃ無理だ。
永遠に満足しねえわ。
それよりも、自分が、誰に、何を、伝えたいか。
たった一人でもいいからその人に向けて、おもしろかった、共感した、そんな考えもあるのね、書いてくれてありがと!と思ってもらえるように想像して書いてるか、どうか。
こうして文章を書くようになったきっかけになった方のブログも、そうやって書いておられたんだと思う。
何を書くか、どうやって書くか、という方法論はあまり問題ではなくて、結局それに尽きるような気がする。
ここなあたりココロと同じで、何を言ったかが重要ではなく、大事なのは在り方。
目の前のお客さんに全てを尽くせるか。電話口の取引先に全力を尽くせるか。今日このブログの言の葉に全力を尽くせるか。
横山秀夫さんは「クライマーズ・ハイ」の中で、今日の締め切りに向かって一日一日を過ごす新聞記者の性を描いている。日々その締め切りによって区切られ、だからこそ平時の敵も味方もその降板の時間に向かって動いていく。なんとか間に合うと、時計はリセットされ、また明日の締め切りに向かっていく。
24時間の中で、いかにして書くか。
今日もなんとかアップできた。いろいろ書き足りなかったり不満な部分はあれど、まぁ今日も暮れていく。とりあえず一杯やるか・・・それは明日の締め切りへのオープニング。
2017.10.28
今日も冷え込みますね。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。