昨日のお話の中の「だし巻きの神さま」について、ですね。
その神さま、才木昇さんと才木直さん。
京都・大徳寺にあります仕出し料理店、「さいき家」さんを経営しておられるご兄弟です。「さいき家」さんはこちらですね。
千利休ゆかりの大徳寺のある京都・西陣で愛される仕出し料理の専門店で、百貨店催事にも精力的に出展されています。時間をおいても崩れず、口に含むと上質な鰹と昆布のだしがあふれ出る「京風だし巻き」は絶品です。
今日はそんなおふた方との思い出の言の葉を、どうぞ。
送別会には出席するようにしていた。
仕事の上で確執があったり、いい関係が築けなかった人も当然いるのだけれど、送別会には出るようにしていた。
振り返ってみると、
それは自分が送られる立場だったら寂しい送別会は嫌だな、という怖れだったり、
仕事や職場を離れればただの人と人で、またどこかでご縁があることもあるだろうという想いもあったのかもしれないし、
ただ単に酒席が好きだったのかもしれない。
自分が送られる立場になって、その方々の優しさが身に染みた。
ある日、厨房に呼ばれた。
その方々はいつもと同じように、たくさん並んだ焼き器の前で汗を拭き拭き、美しいだし巻きを黙々と巻きあげていた。
その美しい所作をぼーっと眺めていた私を見受けたところで手を止め、
「餞別です」
と言葉少なに、弟さんに自然に紙袋を渡された。
お兄さんは横で、文字通り無敵のあの笑顔をたたえていた。
仕事を離れてしまえば、ただの人と人の関係になるのに。受け取り下手だった私は、その方の懐の深い優しさと同量に、そんな申し訳なさを感じたのを覚えている。
しどろもどろの私がちゃんと御礼を伝えられたのか、今となってはわからない。けれど今もその餞別は、私の勝負ネクタイ。
さて、今日のだし巻きは焦げずにうまく巻けたようだ。
2017.6.2
人のご縁というのは不思議なもので、私たちは生きている間にたくさんの人に出会い、別れていきます。別れはときに辛いものですが、両の手に握りしめたものを手放すことでこそ得られる出会いもあるのでしょう。
仕事でのご縁、家族としてのご縁、同郷として、同窓として、あるいは趣味でのご縁。世の中にはさまざまなご縁がありますが、その人とのご縁が象徴的に表れるのが別れの場面だと思います。
才木さんご兄弟とはお仕事でのご縁でした。
仕事の上では、一緒に汗をかきながら多くの時間を過ごさせて頂きました。
今日の言葉は、ご一緒させて頂いたお仕事から私が離れるときのものです。
離れてしまえば、もう仕事の上での関係もなくなってしまう。そうした寂しさを覚えていた私にとって、才木さんが「取引先」としてではなくて「いち個人」として見ていて下さった。有り難い限りでした。
そして時を経て、SNSの恩恵で再会を果たし、昨日のだし巻きのブログにつながるのです。
考えてみれば、寂しいとか孤独とか不安だとかいう思いは、単に私がつくり出す幻想なのかもしれません。いつもどこかで皆つながっている、という真理を思い出しさえすれば、一人ぼっちにはなりえませんし、完全なる別れなど、ありはしないのです。
それは、たとえ今生の別れであったとしても、です。
このあたり、言葉にすることは難しいのですが、「運命思考」第1位の私には確信のようなものがあります。
いつか、どこかで、また必ず会える。
直接言葉を交わさなくても、だし巻きを巻いていると、私は才木さんとの再会することができます。
「油をたっぷりと」、「半熟で、ぷくぷく膨らんだら」
そんな教えが聞こえてくるようです。
そんな才木さんの「京風だし巻き」、機会があればみなさまもぜひ召し上がってみてください。
それでは、どうぞごゆっくりお過ごしください。