人間関係はよく凹凸にたとえられます。
目の前の人が凹なのは、実は自分が凸だからなのかもしれませんし、逆もまた然りだと思うのです。
もう来週末に迫ったクリスマスに寄せて、そんなテーマを。
週末に車の某ディーラーのショーウィンドウでツリーを見つけた息子殿。
クリクマス飾る!
とゴリ押しを敢行。
風邪でダルいから、来週でいい?
と弱気なおとうに、
ダメ!いますぐ!
と容赦なく鞭打つ。
少し時期が早いような気もするが、満足げに電気を消す息子殿。
いつもドMな私に居場所を与えてくれる。
2017.11.6
ドラえもんとのび太くん。
ヒステリックかあちゃんに無気力とうちゃん。
追いかけるルパンに追うと逃げる不二子。
ワンマン社長にイエスマンの従業員。
人間関係は不思議なことに、お互いを補い合う関係に落ち着くようです。凹凸という漢字のように、お互いがお互いを補うように。それはお互いが出会ってから、今に至る時間の中で築かれた関係なのでしょう。
私と息子の関係も、そのように思います。
それが本当の自分がどうか、というよりは、いろんな人の前で「その人との関係においては最も心地よい自分」を演じるのが人と言えるのかもしれません。
親、同性の友達、親戚、同僚、異性の友達、恋人、生徒、パートナー・・・
それぞれの立場の前で、いろんな面の私があって当たり前のように思います。猫をかぶるときもあれば、カッコつけることもあれば、リラックスできる自分でいられることもあれば、めっちゃその人の言動に依存してしまう自分もいて。
それが当たり前だと思いますし、その一つ一つの凹凸によい/わるい、ほんとうの/いつわりの、といった価値判断をすると、途端に苦しくなります。
あー、この人といると、自分はこんな形の凹になるんだな。
え、この人と仕事してるときは、私は意外と凸だな。
そんなふうに凹凸をそのままに感じられると、楽になりますよね。
その前提の上で、なのですが、目の前の人の凹凸の形に違和感が芽生えることがあります。
いつも助けを求めてくるのび太くんが疎ましくなったり、
息子殿のワガママっぷりに嫌気がさしたり、
一切反論しない従業員がものすごく頼りなく感じたり。
関係性が近くなるほどに、そして長くなるほどに、そういった違和感は多く出てくる傾向にあります。
そんなときは、凹凸を思い出してください。
目の前の人が凸なのは、自分が凹だから。
そうだとすると、もしも自分が凹から凸に変わったとしたら、それに合う人は凹の形の人ですよね。そして、それは単純に入れ替わっただけでなく、凹になったことのある凸、になれるんです。回復呪文が使える戦士、みたいな。
たとえば、ずっとのび太くんを助けていたドラえもんは、もしかしたらのび太くんに助けてもらうことで、「助けてあげさせること」という無敵の秘密道具を出せるようになるかもしれません。
そうしたときに見えてくるのは、新しい関係性です。
私たちが「映画版のドラえもん」に感動するのは、幾多の困難の中でのび太がドラえもんを助ける、スネ夫がジャイアンに意見する・・・といった通常回では見られない関係性に感動するのでしょう。
自分が変われば相手が変わる。
言い古された言の葉ではありますが、それは「自分が変われば必ず相手が変わる」という意味ではなく、「自分が変わると相手との関係性が変わる」ということなのでしょう。「関係性が変わる」とは、映画版ドラえもんのように友情を深めることもあるでしょうし、お互いが凸と凸になってそれぞれの道を模索するようになることもあるでしょう。
関係性の変わり方は、目の前の人の数だけあります。
そんな風に考えると、目の前の人の凹が気になってきたときは、自分の凸を見つめなおすと気なのかもしれませんね。
さて、いよいよ今週末はクリスマスですね。
歳時記のイベントは数あれど、子ども時代に最も心躍ったイベントでした。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。