才能と呼ばれるものは、傍から(外側から)見ると輝いて誇らしく見えるのですが、本人(内側から)すると最も隠したいと感じるころ、恥ずかしいと感じるところに、そのカケラがあるのかもしれません。
そしてそれを磨くということは、ある一定の期間、孤独と向き合うことにように思います。
今日は、才能についてのそんな言葉を。
黒歴史と才能について。
結構恥ずかしいのだけれど、私は一人遊びが好きだった。
小学生の頃、人生ゲームとかすごろくみたいなボードゲームを、よく一人で4人のプレイヤーをつくって動かしてトリップしていた。好きだったファイナルファンタジーの道具のデータをワープロで打って一人悦に浸っていたり。
前に書いたように、野球のボールを使った壁当ても、飽きることなく一人で小松辰雄さんになったり郭源治さんになったりして、試合開始から9回裏の2死満塁で相手の主砲を打ち取るところまで実況中継していた。
傍から見ると、映画の「シックス・センス」のあの男の子のように見える子だったのかもしれない。
で、思春期を迎えて周りとの比較と恥ずかしさを覚えるにつけ、友達が少ないことを恥じ、
周りにあわせることを覚え、その一人遊び?妄想癖?を黒歴史にして封印してきた。
とはいっても、大概はダダ漏れしていてバレていたとは思うが。
で、ふと最近気づいた。
毎日こうして文章を書くのは、結構その一人遊びをしている感覚に近い。もし仮にこれが才能だとすると、あれ、黒歴史だと思っていたのは、実は才能のオアシスだった?、と。
だから、とりあえずこれは自分の才能だと信じることにした。何の役に立つか、何に使えるのかは、深く考えないでおこう。
きっと必要なときに誰かに教えてもらえるのだから。
2017.9.25
仕事について悩む人は、きっと仕事の才能がある人。
恋愛について悩む人は、きっと愛し愛される才能がある人。
表現力について悩む人は、きっと表現者として生きられる人。
家族との関係で悩む人は、きっと温かい家庭を築く才能がある人。
問題の陰に才能あり、と言われることがあるように、私たちの悩みはそのままその人の才能に直結しているようです。
どうでもよいことで私たちは悩みません。
今これを書いている私にとって、次にいつ美味しい肴でお酒が飲めるかどうかは、とっても大切な問題です。また週末の日曜日のイブ決戦となった有馬記念でキタサンブラックが有終の美を飾るかどうかは、大問題です。
ところが、ご来店いただいているみなさまの中には、「そんなこたぁ、どーでもいいよ」と思われる方ももちろんいらっしゃいます。
大切なことでしか、私たちは悩まないのですよね。そして悩むほど大切に思えることがあるということは、立派な才能です。
そこに優劣も正誤も善悪もつけなくていいと思うのです。
「こんなことで悩むのは恥ずかしい」とか、
「こんなことしているのは普通じゃない」とか。
私の一人遊びもそのような才能のカケラなのかもしれません。
「周りにこんなことしている子はいない」とか、
「だれもそれを認めてくれない」とか、
以前はそんな風に思ってしまっていましたが、そんなこと考えずに好きなだけそれをすればいいんですよね。そう思えたから、こうして日々このブログで言葉を綴れるのかもしれません。
そして才能に向き合うとき、人は必ず孤独になります。
孤独ならまだしも、「周りにこんなことしている人はいないよ」とか、「それをするのはおかしいよ」とか、周りに批判されるかもしれません。あるいは逆に全く評価も批判もされないかもしれません。
それらは全て自分を信じ切れていない私の心の投影なのですけれど、ね。
それでも、なにを言われても批判されても評価されなくても、いいじゃないですか。
私の才能は、私が決める。
そうして、その孤独な時間の一歩一歩を踏みしめながら歩いていくと、きっと同じ思いをした人たちに必ず出会えます。
それは、自分の才能を信じ切れた瞬間に、外界にそれを投影するのでしょう。
想像してみてください。
そのとき、
目の前にはどんな風景が広がっているでしょうね。
その仲間たちとどんな会話を交わしているでしょうね。
周りに同じような孤独な人がいたら、どんな言の葉をかけてあげたいと思うのでしょうね。
実感を持って想像できた分、孤独な時間も口笛吹きながら歩けるのかもしれません。
だから、孤独な時間も恥ずかしさも、たくさん味わいましょう。きっとそれは、才能をゴシゴシと磨いてくれる砥石なのですから。
才能の輝きは、その時間に磨かれます。
さて、みなさまにとっての恥ずかしいこと、隠しておきたいこと、悩んでいることはございますでしょうか。
きっと、そこにかけがえのない才能が見つかると思います。
今日は冬至ですね。
陰極まりて陽と為す。陰陽反転の節気です。
恥ずかしさも悩みも、才能に転ずることを願って。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。