それはとても逆説的なのですが、
たくさんの人に共感してもらいたいと思うほどに無味無臭になってしまい、その逆にたった一人のために書くことが、たくさんの人の共感を呼ぶようです。
私たちの意識は拡散すると熱量が落ち、集中するほどに膨大なエネルギーを産むようです。
ここで書くときに、意識していることがあります。
それを誰に向けて書くのか、ということです。
お恥ずかしながら、私がいつもここで綴っている言の葉は、
過去の自分に向けてだったり、
今の自分に向けてだったり、
ご縁のあった方に向けてだったり、
大切な友人に向けてだったり、
お馬さんに向けてだったり、
今は亡き肉親に向けてだったり、
家族に向けてだったり、
そんな人たちに向けて書いています。
日々のことですので、ときに筆が進まないときもあるのですが、そういうときはだいたいこのフォーカスする人がぼやけています。
みんなから感心される言葉を綴りたい。
たくさんアクセスしてもらえる記事を書きたい。
多くの人によかったよーって言ってもらいたい。
そういうタテジマ、じゃなくてヨコシマな思いがあると、全く筆が進まないか、無色透明の記事になってしまうようです。
タテジマは阪神だけで十分ですね。
あ、もちろんこれを書いている今も、当然そんなヨコシマさんな意識はありますよ。
それも認めた上て、なのですが、たった一人の人に向けて書くことができると、多くの人に共感してもらえるようなのです。
それはとても不思議で逆説的なのですが。
ちょうど昨日の記事がそうでした。
フォーカスする人が明確になればなるほど、するすると書き綴ることができて、昨日は一筆書きでした。
そうしたら、SNS上でシェア頂いたり、たくさんアクセスを頂いたりと、いつもよりも反応が大きかったのです。
どうやら、私たちの意識というのはフォーカスすればするほどに熱量を持ち、具体的な行動になるようです。それは虫眼鏡の焦点をあわせることができれば、紙を焦がすほどの熱を持つようなものかもしれません。
だから、
多くの人に認められたい、とか
一人でも多くの人を集客したい、とか、
いっぱいいいね!やアクセスが欲しい、とか、
たくさんの人に誉められる仕事を成し遂げたい、とか、
そう思ったときは、一度振り返って
「それは誰のためにやるの?」
と問いかけてみる時間が大切なように思います。
そこでイメージの中に顔が見えてきた、たった一人のために何かをする方が、結果的に多くの見知らぬ人の心を動かすと思うのです。
少し趣は異なるかもしれませんが、イギリスのウエストミンスター寺院にある墓石に刻まれた碑文で、こんなものがあるそうです。
何の束縛もない若かりし頃、
想像は果てしなく広がり、
私は世界を変えることをゆめみていた。
ところが、歳を重ね賢くなり、世界は変わらないことに気づいた。
そこで、目指すものをもう少し近いものにして、自分の国から治めることにした。
だが自分の国も変わらなかった。
老年期に入り、私の願いは悲痛な思いに変わった。
自分の国もだめなら、少なくとも、最も近くにいる家族を変えることにした。
だが、悲しいことに、これすらままならなかった。
今、私は死の床についている。
なんと、今になって初めてわかったのだ。
変えなければいけないのは、自分自身だったのだと。
自分が変われば、家族も変わっただろう。
そして家族に励まされて支えられることで、国をよくすることもできただろうし、
やがては世界を変えることすらできたかもしれなかったのだ。
この言の葉は「相手を変えるにはまず自分を変えること」、「自分を変えることの難しさ」というような含みがあるのですが、焦点にフォーカスした方が結果として大きな影響を呼ぶ、というようにも読めると思います。
「それは、誰のためにやっていますか?」
かけがえのない自分のために。
目の前のたった一人のために。
人数ではありません。
きっとその焦点にフォーカスした熱量こそが、多くの人の心に響くと思うのです。
気付けばもうすぐクリスマス、あっという間に年越しですね。
どうぞ、今日もごゆっくりお過ごしください。