先日、約1年ぶりにお会いした方から、「雰囲気が柔らかくなった」と仰っていただきました。ありがたいことです。
心の傷を隠すための「正しさというジャックナイフ」を振り回していましたが、少し手放すことができたのでしょうか。
寝がけに娘が騒ぐ。
アリエルの人形の紫色の腰巻きのひらひらの部分が見つからない、と。
寝むたぐずりも重なり、お父さんがどっかになくしちゃった!と泣いて聞かない。
幸か不幸か、すでに清酒のコップ酒で出来上がっていた私は、やはり酔っ払いの分類では酔うほどに楽天的で親切になるメリー・ポピンズタイプのようである。仕方がないから一緒に探そうか、と小一時間おもちゃ箱を全てひっくり返して探してみたが、見つからない。
そのうち眠気も限界にきたのか、諦めたのか、娘はもう寝るーと布団に入ってしまった。また明日探そうね、と言って寝かしつけると、満足そうな顔ですぐに寝落ちしてしまった。
前に読んでいた本で、痴呆症の介護現場の研修内容が書いてあった。
「財布がない。お前が盗んだんだろう!」
と利用者の方が身近なものをなくして、嫌疑をかけられた場合の対応の一つの例。
盗んではいないです、
と主張するのではなく、
利用者の方と一緒に財布を探してみる。
もし財布が見つかったら、
そっと見つけ易い場所に置いてみて、
利用者の方が自分で見つけるのを待ってみる。
もし自分で見つけることができたなら、
見つかってよかったですね、と
一緒に喜んでみる。
私自身は介護の経験はなく、以前後輩が転職した介護施設の敬老の日とかのイベントにヘルプで何回か利用者の方と一日過ごさせて頂いたことがあったくらいだけれど、
その話を思い出した。
人間だれしも、不安になったり、怒ったり、寂しくなったりする。それは、お金、物、愛情、自信、人・・・何かをなくしたと思ってのことかもしれない。
そうしたときに、客観的な事実や正誤、善悪を突きつけるよりも、ただ感情に寄り添ってもらえたなら、それだけで救われることもある。
自分の弱さを隠すための「正しさ」という尺度のみの中に生きていた以前の私なら、我慢して犠牲して探して「やって」いたのだろうか。
それならまだしも、余裕がなければ「何言ってるんだ、そもそも自分のものを自分で管理して
おかない方が悪いんだろう!」とキレていたのだろうか。
そして、よしんば探しものが見つかったとしても、「それ見たことか!」とまた自分の正しさを主張して相手を責めていたのだろうか。
プロセスよりも結果を重んじる男性にとっては割と信じがたいことではあるが、「アリエルの紫の」が見つかるかどうかなんてのは、本当は大したことではないようだ。
それよりも、自分の不安な気持ち、寂しい気持ちに寄り添ってもらえる方が、探しものを見つけるよりも数十億倍大切なことなんだ。
だいぶ酒が抜けてきた頭でそんなことを考えながら、ふとおもちゃ箱を見ると、紫色のプラスチックが目に留まる。
・・・これだったのか。
誰かが脚本書いてるんじゃないかと思えるような、今日の小噺。
2017.12.10
以前、上司によく噛み付いてました。
正しさというジャックナイフを振り回して。
「私、間違ったこと言ってないですから」
書いてて顔から火が出るような恥ずかしい台詞を盾にして、自分の正しさを証明しようとしていました。
自分を犠牲にしてまで仕事を頑張るのが、正しい父親の務めだと思ってました。
頑張って頑張って自己犠牲するまで頑張って、大切なものから離れることでしか、どうしようもなく大好きだったけれど、もう会えなくなってしまった父親の愛を再現できないと思っていたから。
正しくないと、いけないと思っていました。
愛されないと思っていました。
価値がないと思っていました。
受け入れられないと思っていました。
善悪の彼岸は、生々しい心の奥底の傷跡を隠すための弱さでした。
正しさを追い求めた結果、周りに「間違っている」というレッテルを貼っていたことに、私は気づきませんでした。
ただ「正しさジャックナイフ」を振り周りしていたことが、必ずしも悪いことでもないと思うのです。そこに正誤・善悪・優劣の判断をつけている間は、二元論の世界に留まり続ける。
きっとそこに幸せは、ないと思うのです。
そうしないと生きられなかった、と認めること。
それでも、そんな私を見捨てなかった人たちがいました。そんな私に手を差し伸べてくれた人たちがいました。
そのおかげでまあ正しさもいいけど、楽しさの方がいいかな、と思えるようになってきたのです。
そんなこんなで、
今日も世界は
美しく、
不思議で、
夢だらけ。