今日は人のご縁シリーズ、ひとりのパティシエ&ショコラティエとのありがたいご縁からです。
メープル・モンブラン。
ショーソン・オ・ポム。
ヴィジタンティーヌ。
ガレット・デ・ロワ。
デキュスタシオン。
エクレール・オ・ブール・サレ。
そのシェフのスペシャリテは、いつも美しい直線と曲線の織りなす造形美にフランスのエスプリを漂わせていた。けれど、どのスペシャリテも口にすると、どこか懐かしい情感がした。
思えば、そのシェフは私が社会人として仕事を始めた頃、仕事の向き合い方に影響を受けた方だった。
自分にも周りにも仕事に妥協を許さず、どこまでも真摯にその過程と結果に向き合うその姿に私は憧れを抱き、時折見せる悪戯っぽい笑顔に、失礼ながら兄貴のような親しみを覚えていた。
閉店後の休憩室で、思いがけずシェフに声をかけられたのを覚えている。
お前、辛そうだな。
何を抱えとるんや。
たまのイベントでしか接していないはずの私が抱えていた心の闇に、シェフは気づいていた。拙く話す私に、励ますでも諭すでもなく、
そうか。
とだけ言って、またいつもの仕事のときの表情にもどっていた。
そんなシェフに、仕事でねぎらわれたことがある。
それも何か成果を出したわけでもなく、とびっきりの失敗をしたときだった。
冬のチョコレートのイベント。夕方からのピーク時に呼び込みをしていた私は、オイルショック時の映像のようなラッシュに、なし崩し的に販売員として接客に入った。
元々私は器用ではなく、手も遅い。加えてイベント終盤戦、疲労と会場の熱気に朦朧とする中、金銭授受でクレジットカードを渡し間違えた。
「これ、私のカードじゃないです」
・・・やっちまった。
背筋が凍る中、カード会社に連絡して2枚のカードを止め、間違えて渡したカードの持ち主の自宅まで回収に伺い、その足で回収したカードのもとの顧客にお詫びかたがたお返しして、カード会社に使用再開の連絡をする頃には、夜も遅くなっていた。
翌日、仕事人生の中でも指折りの失敗に、特大の罪悪感と極度の無力感を満載した私に、
昨日はありがとな。
また今日もよろしく!
とだけ言ってシェフは笑っていた。
きっとあのスペシャリテたちから溢れ出る情感は、そのシェフの根底にある人としての優しさ。
街で、駅で、あの青と白の手提げ袋を見かけると、その深い優しさを思い出して、私は嬉しくなる。
2017.6.6
そのシェフ、柴田武シェフ。
1995年、柴田シェフが岐阜県多治見市にオープンさせた「chez Shibata シェ・シバタ」は、今では名古屋2店舗をはじめ、アジアを中心とした海外にも10店舗を展開しています。
昨年にはフランス最高峰のチョコレートの祭典「サロン・デュ・ショコラ」に、チョコレートメーカーのセモア社とコラボした「SAMURAI CHOCOLAT(サムライショコラ)」にブースを出展されてました。
そこまで「シェ・シバタ」ブランドを大きくされているという経営者としての手腕を発揮されながら、私と出会った頃と変わらず厨房や店頭に立ち続けておられるのは、プロフェッショナルとしての矜持からでしょうか。
そんなプロフェッショナルのシェフは、仕事に対してとても厳しかったけれど、誰とでも対等に接しておられました。
ただ、私にとっては、優しさを感じる存在でした。
人の魅力や長所や優れているところで、その人を認めたり、受容したり、愛したりすることは簡単です。
その人が素直な人だから、受け容れる。
その人の技術が優れているから、認める。
その人が美しくて優しいから、愛している。
それは誰しも当たり前です。私も当然そうです。
しかし、ほんとうに優しい人とはその逆で、人の全くダメなところ、コンプレックスや失敗を認め、受容し、愛することができると思うのです。
それはただ単に失敗を許してくれるとか、慰めてくれるとか、励ましてくれる、ということではありません。
もちろん、結果としてそうしたリアクションになることもありますが、周りの人の失敗やダメなところやコンプレックスをぜーんぶひっくるめて、信頼する=信じて頼ることができる人が、きっと優しい人だと思うのです。
柴田シェフのように。
そういう優しい人の前では、認められようと、受け容れられようと、愛されようとしなくて済みます。自分が自分であればいいと思えます。
柴田シェフのスペシャリテたちは、そんな自分に戻らせてくれる情感がします。
その優しさは、きっとシェフ自信が血の滲むような努力を重ねて、それでも思うようなお菓子が作れず、そして周りに認められずに苦労されてきたことの裏返しのように、私には思えるのです。