他人を意識しだした瞬間に、生き辛くなり悶々とします。
私は私、人は人。
そう思えるようになるためには、やはり「練習」が必要だと思うのです。
今はこうして私自身の言の葉をここで紡がせて頂いていますが、以前は自分の考えを人に伝えることが非常に怖かったのです。
何かを表現すると、嫌われる。
自分の考えには表現する価値なんて、ない。
意識的に無意識的に、そんな風に考えていました。あまり意見を言わず、周りの考えを聞く側に回ることが多かった。
それは、きっと自分が自分の価値を信じていないことから出てくる怖れでした。怖れと書くとネガティブな印象を受けますが、それは過去に心が負った傷がつくる防衛本能のようなものだと思うのです。
過去にとっても自信を持って言ったことが、周りに認められなかった。
以前に自分の好みを全否定された。失恋なんかも、その類いですよね。
親や家族やパートナーといった大切な人からぞんざいに扱われた。
自分の意図とは関係のない不運な出来事があった。
そんな出来事を経験するにつけ、私たちは自分の考えや感性を心の奥底に閉じ込め、鍵をかけるようになります。
二度と、そんなつらい経験をしたくないから。
表現しなければ、否定されることもない。
自分の価値を低く見積もっておけば、周りからそう扱われても納得できる。
深く傷付いた心は、そんなかたちで自らを防衛することがあります。そうした怖れは、心がつくりだすかさぶたのようなものなのかもしれません。
ところが、そうして奥底に閉じ込められた自分の考えや感性は、時間が経ってもなくなるわけではありません。むしろ時間が経つごとに抑えつけることが難しくなります。
そしてあるとき、かさぶたが何かに引っかかって「べりっ」って剥がれるように、怖れを捨てるタイミングが来るようです。それはかさぶたを剥がす際と同じように、痛みをともなうことが往々にしてあるようですが・・・
どう思われても、私は自分の感じたことや意見が大切だ。
もし彼女にフラれても、もっと素敵な女性に出会える。
親や家族との関係がどうあろうと、私は幸せに生きていける。
これからどんな出来事が起こっても、私は大丈夫。
つまり、「嫌われることの怖れ」よりも、「信頼を選択する」ということ。そして、もしそれができないのであれば、やっぱり「練習」って必要です。
こうしたことがナチュラルにできる人もいると思うのですが、後天的にできるようになる人の方が多いのではないでしょうか。
(全然関係ない話ですが、そうした変化が起こりやすい年齢を「厄年」と呼ぶような気がします。人生Bダッシュで急ぐ人はもっと若い時分にそれを経験するのでしょう)
例えば私は、他人の目が気になって、周りの人の言動で振り回されて仕方がない時期に、「私は私、あなたはあなた」、「私は私、人は人」と通勤の車の中やランニングの最中にずーっっと呟いていました。だいぶあやしい人ですね。
そんな練習をずーっっと続けていると、「まあ人は人だよね。それでも私は私」とナチュラルに言えるようになって、自分を表現することへの怖さが薄まってきたのです。すぐに周りの目を気にしたり、比較したりしがちの私ですので、その練習は今でも続けています。もう2年近くになります。
こういうのって向き不向き、得意不得意もありますが、いろんな練習があると思うのです。
このブログでもよくお伝えする、日常の細部を見つめる練習。
ありがとう、ごめんなさいと言葉に出す練習。
目の前の人に笑顔を与えてみる練習。
自分の感じたことを冷静に見る練習。
そんな地味な練習を重ねることが、自分を信頼することにつながっているようです。
今日も、とりとめもない話になりました。
かさぶたならぬからすみをご用意しましたので、どうぞごゆっくりお過ごしください。