大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

砂と旅のライフワークを生きた女 ~1996年フェブラリーステークスに寄せて

その人のライフワークは、いつどこで見つかるか分からない。

そして、いつそれを始めても遅すぎることはない。

今日は今年最初のGⅠレースに寄せて、遅咲きのライフワークを生きた牝馬の言の葉をお届けしたい。


 

1993年のエリザベス女王杯を内からするすると差し切った、ホクトベガ。その年の春の二冠馬ベガと似た馬名であったことになぞらえ、「東の一等星!北斗のベガ!ベガはベガでもホクトベガ!」という名実況を生んだ。

その後翌年に夏の札幌でオープン、GⅢと2勝を挙げるも、じりじりと勝ちきれないレースが続いた。その2年前、障害レースへ転向したのちに再度平地に出戻りしたメジロパーマーが宝塚記念、有馬記念という二つのグランプリレースを連覇こともあって、ホクトベガも障害レースへの転向も検討された。すでに平地のGⅠレースを勝っていた馬としては異例であった。

実際に障害レースの訓練まで積んだものの、最終的には出走するまでには至らなかった。ホクトベガ陣営はさまざまな路線を模索する中、地方・中央交流元年となった1995年6月に川崎競馬場の伝統の牝馬重賞「エンプレス杯」に出走することを決める。

当時、地方・中央交流元年の目玉の交流重賞の一つとして指定された「エンプレス杯」であったが、地方競馬場のダート2,000mのレースに、中央の芝のGⅠを勝った馬が出走するのは異例中の異例とも言えた。

 

折しも当日は不良馬場となったが、ホクトベガはまるで田んぼのようなその馬場を全く苦にすることもなく、居並ぶ南関東の強豪牝馬を歯牙にもかけず衝撃の大差勝ちを収めた。横山典弘騎手のゴール前100m地点での早すぎるガッツポーズは、今でも語り草となっている。

その後秋の芝のGⅠ戦線に出走するも惨敗を重ねた陣営は「エンプレス杯」の圧勝に活路を見出し、ダートのレースを求めて各地の競馬場を旅して回ることを決める。

普通の牝馬なら引退して牧場へ帰り、繁殖牝馬になっていてもおかしくない7歳という馬齢にして、ホクトベガはライフワークを見出した。

明けて1996年。

1月24日、川崎記念(川崎)1着

2月17日、フェブラリーステークス(東京)1着

3月20日、ダイオライト記念(船橋)1着

5月5日、群馬記念(高崎)1着

6月19日、帝王賞(大井)1着

7月15日、エンプレス杯(川崎)1着

10月10日、南部杯(新盛岡)1着

12月4日、浦和記念(浦和)1着

そして1997年、

2月5日、川崎記念(川崎)1着。

交流重賞10連勝。ライフワークを歩み始めたホクトベガは、気付けば当時の牝馬歴代最高の9億円近くを稼ぐ女になっていた。

 

さて、ライフワークを歩み出すと、必ず抵抗勢力が出てくる。

「地方荒らし」。

当時、彼女とその陣営を中央から賞金をかっさらいに来ると批判する声もあった。

しかし、結局は勝ち続け季節が深まるうちにその不満の声も発せられなくなっていった。彼女が出走すると、その豪快な勝ちっぷりを観に多くの人がその競馬場に足を運び、馬券が売れたからだ。そして彼女はそれに応え続けた。

人の潜在意識は安定を好む。

ひとたびホクトベガの圧勝が水戸黄門の印籠になると、みな結末が分かっているドラマを安心して観たくて各地の競馬場を賑わせた。だからホクトベガは愛された。

言いたい奴には言わせておけ。
私は私の道を生きる。

そんな声が聴こえてきそうな戦績をひっさげ、ホクトベガは1997年4月3日、「ドバイワールドカップ」に挑んだ。

日本馬として初めてこの世界最高峰の砂のレースの勝利を期待され、彼女の旅は遠く中東の地を訪れる。しかし荒れる天候に何度も順延を重ねた末に行われたレースの中で、彼女は転倒し大怪我を負い、そのままドバイの星となってしまった。

その戦績の晩年に、砂と旅というライフワークを見出した彼女による初めての日本馬の勝利を期待していた中、届いた訃報の衝撃が今も忘れられない。


 

砂と旅をライフワークに生きたホクトベガ。

交流重賞、ダート。

毎年最初のGⅠ、フェブラリーステークスを迎えるたびに、彼女の生きたライフワークに想いを馳せる。

寒風切り裂き、砂塵を舞い上げ、己がライフワークを走れ。

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