朝起きてから夜寝るまでに、私たちはさまざまな人に会い、いろんな情報を目にしたり耳にしたりします。
こうした外界からの刺激も「生きていればこそ」なのですが、あまりに無防備でいると振り回されたりして疲れてしまうこともあります。
今日は私がそんなときにつぶやいている言葉をご紹介いたします。
自分の身の回りに起こる出来事は、それ自体はどこまでもニュートラルです。
朝起きたら雲一つない青空に太陽が昇っているのも、
駐車場の縁石でバンパーをがりがりするのも、
弾劾されるのどこかの国の大統領も、
たまたま当たった宝くじも、
友人からちょっと話聞いてほしいとLINEが入るのも、
カップラーメンの昼食も、アラン・デュカスのフルコースも、
目の前の子どもも夫も母親も同僚も道行く人も、
ただそこにあるだけで、それに意味はありません。
そう、ただあるだけなんです。
なぜかそこに私たちは感情を貼り付け、意味をつけたがり、それを判断したり、裁いたり、崇めたり、蔑んだりすることに忙しくしがちです。あれは善い、これは悪い、こっちはダメだ、あっちは良い・・・と。
そして、たくさん感情や意味や判断を張り付けた分だけ、それらに振り回されることになります。
善いと判断したものには、それを無条件に宇宙全体の真理としての答えと扱ったり、人であれば中世の絶対王政の王様のように崇めてみたり、悪いと判断したものは何としても自分の正しさを押し付けコントロールしようとします。そう、悪いものは奴隷のように私に従うべきだ、と。
けれど、そうした自分の外部に王様や奴隷を求める試みは、必ずと言っていいほど破綻します。
自分の外部に王様を求めると、それらと自分の感覚との相違が見つかったときに、自分を押し殺すか今までの自分を否定するかという苦しい選択をするはめになります。また周りを奴隷のようにコントロールをしようとしても、なかなかうまくいかないことがほとんどでしょう。もしもお客さまが超能力やテレパシーやひみつどうぐのようなものがあれば別ですが・・・
当然、私もそのケはありますが、それでも最近はその振れ幅は緩くなってきたように思います。
自分の外部に絶対的な王様や奴隷を求めるのは、実は全て自らのぽっかりと空いた穴の裏返しです。どれだけその答えが正しそうに見えても、あるいは王様への崇拝を強めたり、奴隷のコントロール強化月間のキャンペーンを張ったとしても、その穴は埋まりません。むしろもっと正しそうに見えたり、強大な国の王様や、卑屈な奴隷を求めていくだけです。
その空いた穴は、自分で埋めるしかない。
はい、いつも通りです。
日常の細部を見つめ、自分の感じていることに目を向けることから、ですね。
さて、それでも外界に見える王様や奴隷の言動に、自分が揺れそうになるときはあります。
そんなときは、こんなふうにつぶやいてみるのはいかがでしょうか。
「・・・と申しておりますが、おおさきサマ、いかがいたしましょうか?」
とっても優秀な側近が、私という王様の耳元でささやいているイメージです。
そうして「おおさきサマ」と自分を外部から呼ぶことで、「私」という主観的な見方から一歩離れることができるのです。
そう問われた「おおさきサマ」は、
「うむ、くるしゅうない、よきにはからえ」でもいいですし、
「よくもうしてくれた、ほうびをつかわす」かもしれませんし、
「おお ゆうしゃよ!しんでしまうとはふがいない!」とアリアハンの王様になってみてもいいわけです。
要は当事者になってしまって、主観的で利害関係バンバンの状態から一歩離れて、客観的に俯瞰する目線で、その「ただある」ものごとを眺めてみることができるのですね。
ちょっとふざけているようにも見えますが、これけっこう楽になります。
身の回りで起こる出来事や目にしたり耳にしたりすることは、どこまでもニュートラルです。
もしそれらに振り回されたり揺れそうになったときは、ダマされたと思ってつぶやいてみると、ちょっと楽になるかもしれません。