いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました。
今日は日曜日ですが、春のG1シリーズも中休みですので少しつれづれを。
子どもは、やはりかわいいですね。
そこにいるだけで周りの人を癒します。
産まれたばかりの赤子はまさにそれを体現しています。
何もできなくても、何も話せなくても、
ただ笑って、ただ泣いて、
ただ遊んで、ただミルクを飲んで、
ただそこにいるだけで周りの人を癒します。
それが我が子であるとどうしても関係が近すぎる分、強烈に癒される反面、無垢な瞳に愛される怖れであったり、私がちゃんと育てないといけないというプレッシャーであったり、自分も持っていたけれど抑えてきた自由な魂を見せられて無性にイライラしたり・・・まあめんどくささも強烈なわけですが。
ただ、少し距離の置いて子どもたちを見ると、やはり気づかされるわけです。
道すがらですれ違うベビーカーに乗った赤ちゃん。
友人や親類の夫婦の子ども。
公園ではしゃぎながら遊ぶ子どもたち。
そんな子どもたちを目にすると、やはり癒されます。
彼ら、彼女らは「何かができるから」「何かが優れているから」周りに癒しをもたらすわけではありません。
雲梯が端から端までできるから、
因数分解ができるから、
英語の関係代名詞を理解しているから、
あるいは、
とてもかわいい顔をしているから、
じょうぶな身体をしているから、
かけっこが早いから、
周りに癒しを与えられるわけではありません。
ただ、そこにいるだけで愛を与える存在です。
・・・さて、実は私たちもそんな存在でした。
きっと誰にでもすっと前には、もうそこにいるだけで周りの大人を笑顔にしていた時間があったはずです。
それがなぜか私たちは成長する中で、どこかで「どうやったら愛されるか」を考え始めてしまうようです。
おかたづけをしたら、もっとおかあさんはおこらないかな
わがままいわなかったら、おとうさんはあそんでくれるかな
わたしがわらっていたら、おかあさんもわらってくれるかな
がんばってれんしゅうしたら、おとうさんはほめてくれるかな
本当は、そんなこと何もしなくてもおとうさん、おかあさんはあなたがいるだけで何よりも幸せなのにね。
自分が子どもを持つと分かるのですが、自分の「ちゃんと育てないといけない」「しっかりとしたしつけをしないといけない」という怖れから、「これはだめ、あれはだめ、ああせえ、こうせえ」と言ってしまうのです。
突き詰めると、その「怖れ」すらも「愛」からくるものだとは思うのですが。
テレビに出ているあの有名人も、難しい顔をしてる上司も、確変が入ってデートをすっぽかすあのどうしようもない彼氏も、あれこれ口うるさく干渉してきて面倒な親も・・・そして、あなた自身も。
もともとは、生まれながらにして愛しかない存在でした。
名古屋は暖かい初夏の陽気のような日曜日です。
少し陽のあたるところでコーヒーでも飲みながら、そんなことを思い出してみてはいかがでしょうか。
今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。