私が競馬を見始めて何年か経った1996年、そのジョッキーがデビューした。
彼と同期でJRAの競馬学校を卒業したジョッキーたちは、のちに「花の12期生」と呼ばれる多士済々の面々が揃っていた。
元祖天才・福永洋一の息子として注目されていた福永祐一や、
田村真来、牧原由貴子、細江純子の3人のJRA初の女性騎手、
そしてそのジョッキーは彼の双子の弟と同時に卒業・デビューということで、
多くのファンやマスコミの注目を集めていた。
デビュー騎乗から2連勝という離れ業をやってのけた福永祐一、
デビュー年に重賞を勝利した和田竜二、
2年目に早くもG1を制したフルキチこと古川吉洋・・・
デビューから派手な活躍を重ねる彼らの中にあっても、彼は初年度27勝という素晴らしい成績を収める。
2年目にはG3・ラジオたんぱ賞をエアガッツで制して、順調にキャリアを重ねていくかに見えた。
しかし、2年目に初年度を上回る29勝を挙げたあと、彼の成績は下降線をたどる。
デビューから所属していた厩舎の調教師、つまりは師匠との確執でフリーに転向したことが原因といわれる。
徐々に勝ち鞍を減らし、2000年にはついに一桁の9勝まで落ち込む。
そんな中で、そのジョッキーは、確執のあった師匠と和解し、再度師匠の馬に騎乗するようになる。
その確執がどんな経緯だったのかは、外野のわれわれには本当のところは分からない。
確かなのは2001年からそのジョッキーが栗田博憲厩舎の馬に騎乗するようになった、ということだけだ。
しかし、それでもうまくいかないのがこの世の難しいところだ。
毎年新たな才能がデビューし、シノギを削り合う厳しい優勝劣敗の世界のこと、なかなか成績が伸びない。
2001年、11勝。
2002年、10勝。
2003年、5勝。
2004年、5勝。
2005年、3勝。
2005年からは、騎乗機会を求めてジャンプレースにも挑戦した。
しかしなかなか結果はついてこず、ついに2006年から二年間は勝ち鞍ゼロと低迷した。
栗田厩舎からの騎乗依頼も、再びなくなっていた。
それでも。
そのジョッキーは多くの調教に騎乗し、機会を待った。
転機は2008年。
3年ぶりの勝利を、ジャンプレース初勝利で飾った。
それを見ていた馬主の縁がつながり、「マイネル」の冠名で知られる有力馬主、「サラブレッドクラブ・ラフィアン」の岡田総帥の目に留まり、騎乗依頼を受けるようになる。
それ以降、不死鳥のごとく再び成績を伸ばしていき、2011年には年間20勝と二桁勝利に復帰。
同年7月、マイネルネオスでジャンプG1・中山グランドジャンプを制するまでになる。
怪我などで休養していた場合などを除き、こうしたV字回復の成績を挙げるジョッキーは珍しい。
そして迎えた2013年5月5日、NHKマイルカップ。
そのジョッキーが騎乗したマイネルホウホウは、10番人気と低評価だった。
しかし道中は後方から進めたホウオウは、最後の直線で素晴らしい脚を披露して先行馬をまとめて差し切った。
そのジョッキー、デビューから苦節18年にして平地G1初勝利。
勝利ジョッキーインタビューでは人目はばからず男泣き。
「マイネル」の真っ赤な勝負服よりも、目を赤く腫らしていた。
大知、おめでとう。
よかったじゃねえか。
そうだよな、頑張ってたもんな。
もらい泣きしちまったよ。
今日も当たんねえけど、いいもん見れたよ。
これだから、競馬はやめらんねえ・・・
そんなファンの声が聞こえる気がするインタビュー。
そのジョッキーの名は、柴田大知という。
わざわざ苦労しなくても、今すぐ幸せになっていい。
巷にはそんなメッセージがある。
それは一つの真実だ。
幸せとは何がしかの状態を指すのではなく、感じるものだから。
それでも。
それでも、雌伏の時間と、自分の才能への絶望、長きにわたる葛藤・・・
そんなアトラクションを乗り越えた男の涙には、やはり人は心を打たれるのだろう。
苦労してもいい。
苦労しなくてもいい。
どちらでも、大丈夫。
結局、どうせいつかはみんな同じように幸せになるのだから。