大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

傷つくならば、それは愛ではない 〜痛みは愛を知るとき

今日は私の写経バイブル、チャック・スペザーノ博士の「傷つくならば、それは愛ではない」の一節から。

1.傷つくならば、それは愛ではない

タイトルにもなっている一節です。

「傷つくならば、それは愛ではない」

あらゆる歌や本や映画が語っていることとは違い、愛は傷つけません。

傷つくのは望みが満たされないとき、ほしいものが得られないとき、関係のなかで過去の痛みに触れたときなどです。
愛は何ものも傷つけることはできません。
愛はつながっている感覚であり、よろこびをもたらします。

ただ、あなたがちぢこまったり、背を向けたりしたときにそれは傷となるのです。

あなたの心が広がるとき、少し傷ついたように感じることがあります。
それは胸の奥がキューンとするような感覚で、あなたの心が愛と感謝で大きくなっていく豊さのしるしです。
長いこと不自由だったあなたの心が、いまいちど、踊りはじめているのです。

これは本当に甘い感覚です。

うーん、改めて、核心を突くいい文章ですね。

「傷つくならば、それは愛ではない」。

あまりに素晴らしく愛の本質を突いているが故に、これを言われてしまうとぐうの音も出なくて、簡単に暴れれなくなってしまうのが難点ですが・・・

2.愛に見せかけた、別のもの

私たちはよく自分の欲求を愛に見せかけて、相手に与えます。

一見、相手に向けた愛からのように見える行為も、「相手の反応に対する自分の反応」でそれが愛か、そうでないかが分かってしまいます。

これだけしたから、あなたもこれだけしてね。
こんなにもしてあげたのだから、同じくらいの愛を返してね。
これが出来るから、私を認めてね。
私が愛されるためには、これくらい尽したぐらいじゃ足りないよね。

そんなような承認欲求だったり、犠牲だったり、補償行為だったり・・・愛ではないいろんなものから、私たちは与えようとします。

そうした「自分が望んだとおりの反応」を相手が示さなかったとき、

そうした偽の愛は傷つき、
もう与えない!と逆ギレしたり、
与える相手を間違えた、と拗ねたりしてしまいます。

3.与えること自体が喜びになる

けれど、自らの心の深い部分の愛とつながっていれば、同じような相手の反応であっても傷付くことはありません。

与えること自体が、喜びになっているからです。

自分がその愛を与えられたことで、すでに多くのものを受け取っているからです。

相手の反応がどうあれ、与えることを楽しむことができます。

そしてその方法にこだわらず、いろんな形で与えようとすることができます。

冒頭に書かれているように、愛は傷つかないのです。

とはいえ、承認欲求も犠牲も補償行為も偽の愛も、普通にあるのが私たち人間です。
それらを否定して消そうとしても、なかなか消えてくれません。

なぜなら、それらは傷ついた生暖かい部分を守るために発動するガードのようなものだからです。

たくさん与えたのに、認められなかった。
与えてばかりで、疲れてしまった。
どんなに頑張っても、認められなかった。
存在自体を、否定された。

そんな古い痛い傷から、自分を守るためのカサブタたちのようなものです。

傷が癒えてないうちにそれらを外すのは、鎧や盾を脱ぎ捨ててしまうように、もっと深く傷ついてしまうように感じられるものです。

4.心が広がるとき

逆説的なのですが、それらを越えて愛に触れるときは、もっと深く傷ついたときなのかもしれません。

スペザーノ博士も書いています。

あなたの心が広がるとき、少し傷ついたように感じることがあります。

例えば、ほっぺたをつねると、痛いです。
けれども、そのときほっぺたは広がっています。

あんなことがなければ、彼の愛に気づくことができなかった。
こんなことがなかったら、親の有難みに気づけなかった。
あれがあったからこそ、周りの人の優しさに気づけた。

ものすごくショックだったけれど、それがあったからこそ今が奇跡のように感じられる。

心が痛いとき、それは心の器が広がっているときなのかもしれません。

そして、それは傷つくことのない愛に気づくプロセスと言えるのかもしれません。

時が経って振り返ってみたときに、きっと気づくはずです。

何もかもが完璧なプロセスで、無駄なものは何一つなかったのだ、と。

ええ、もちろん、私もあなたもそんなプロセスの中にいるのでしょう。

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やはり、このスペザーノ博士の名著「傷つくならば、愛ではない」はいろんな示唆を与えてくれるようです。また折を見て、他の金言もご紹介させて頂ければと思います。

今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。