今日は「才能」についての、一つの見方を書きたいと思います。
その見方とは、「才能」とは与えられた贈り物(gift)であり、与える(give)もの、というものです。
1.後天的な意味での才能
日本語の「才能」を意味する英単語は、「ability」、「talent」、そして「gift」という語が使われます。
このうち「ability」のニュアンスは、後天的に努力で磨かれたもの、あるいは磨かれる余地があるものといった意味で使われます。
She has an unusual ability in English.
(彼女の英語の才能はずば抜けている。)
私たちは、何かを積み重ねたり、努力を重ねたもの(先の例でいう「ability」の方)を「才能」として認める傾向があります。
これだけ時間をかけて努力を積み重ねたものだから、「才能」という「価値」があるものだろう、というように。
確かに、それも一つの才能であり、その才能を身につけたことは価値のあることです。
けれども、積み上げたものは必ず崩れます。
何かができること、
何かがわかること、
あるいは何かに秀でていること、
何かが優れていること・・・
そうした才能は、いつか必ずそれよりも「できる」「わかる」「秀でている」「優れている」ものに出会うからです。
そこでもっと努力して「才能」を磨くように頑張ることもできますが、それには終わりがありません。
その「才能」を磨いて競争をすることが楽しくて喜びであるのならばいいのですが、もしもその行動が自分自身の欠落感や欠乏感から来ているとすると、いつかその燃料が切れたときに燃え尽き症候群となって、競争の螺旋から強制的に降りざるを得なくなります。
2.先天的に与えらえた才能
その一方で、そうした後天的なニュアンスと異なる「才能」を示す語があります。
「talent」や「gift」という語ですね。
これらは先天的に、生まれつき天から与えられたものというニュアンスがあります。
You have talent.
(あなたには才能がある。)
She is gifted.
(彼女には類まれなる才能がある。)
よく心理学では「才能」のことを「ギフト」を表現しますが、よくできた表現だな、と思います。
生まれつきの、「才能」。
何かを積み重ねてできるようになったことではなく、自分が息をするようにできること。
それこそが、天なのか神さまなのか仏さまなのかが、人に与えてくれた「才能」なのだと思うのです。
そうした「才能」は、周りと比較する意味がないので、失われることも自信をなくすことも崩れる必要がありません。
それは、「なにかができる」「秀でている」「優れている」から「才能」という訳ではないからです。
3.才能の正体
そんなふうに突き詰めていけば、
「あなたがあなたであること」
それこそが、人が生まれ持って与えられた唯一無二の「才能」なのです。
周りの人に共感して勇気づけられるのも、あなたであるから。
うっかりミスをして周りが活躍するチャンスを与えられるのも、あなたであるから。
一緒にいると周りに安心感を与えるのもの、あなたであるから。
いつも遅刻して周りの時間に厳しいブロックを緩めることができるのも、あなたであるから。
その笑顔で世界を美しくするのも、あなたであるから。
あなたがあなたであるだけで、世界は優しく美しくなります。
それこそを、「才能=gift」と呼ぶのでしょう。
4.なぜ才能を"gift"と呼ぶのか
さて、「gift」にはもう一つ意味があります。
日本語の「ギフト」で使われる通り、「贈り物」という意味です。
そして、「gift」と同じ語源を持つ単語があります。
「give」という語です。
意味はもちろん、「与える」ということ。
「才能」とは、天からの贈り物。
そしてその贈り物は、「与える」ことと同義なのです。
あなたがあなたであること。
それは、何かができることもできないこともすべて含めて、自分であること。
それ自体が、限りなく尊い世界へのギフトと言えるのかもしれません。
人の資質、才能を見抜くコーチ、コンサルタントなどをしておられる方は、みな「才能のない人などいない。誰しもが素晴らしい才能を持っている」と言います。
きっと彼らの言うところの「才能」とは、
giftであり、
贈り物であり、
giveするものであり、
与えるもの、
なのでしょう。
「才能」について、そんな見方をしてみると、世界が少し違って見えるかもしれません。
今日もお越し頂きまして、ありがとうございました。
どうぞ、ごゆっくりお過ごしください。