私にとって、「書くこと」はライフワークのようです。
よく昔から文章を書いていましたか?と聞かれることがありますが、そうでもありません。
読書はそれなりに好きでしたが「書く」ことを始めたのはこのブログを書き始めてからで、それまでは学校や仕事などで必要最低限くらいしか書くことはしていませんでした。
それでも以前から手紙などを書くことは好きだったりしましたので、もともと好きなことの部類だったのかもしれません。
けれど、ストレングスファインダーの診断によると「コミュニケーション」(=何かを描写したり、説明したりする資質)の資質は、上から数えて17番目とちょうど真ん中くらいの順位なのです。
不思議なものですが、「書くこと」とは「何かを描写したり、説明したりする資質」だけではなく、別の要素も多分に含まれているように今は感じます。
そんな私はここで日々文章を書いていますが、毎日更新することは締め切りを設定するという意味ではいい刺激になっています。
書いてアップしてから、「この内容はもう少し上手く書けたんじゃないか」、「時間をかければ、もっといい記事ができたんじゃないか」と思うことは多々あります。
けれど、それも書き続けていくうちにそうでもないと思うようになりました。
以前に何度かやってみたのですが、練りに練って、推敲に推敲を重ねてからアップしようとしても、うまくいかないのです。
時間とともに、それを書こうと思ったときの熱量が冷めてしまい、修正したい箇所ばかりに見えてしまうんです。
そして、修正を重ねた文章は、なんだかつぎはぎだらけの抜け殻のようになってしまっていることがほとんどでした。
おそらくは、
「質」は、「量」からしか生まれない。
「いつか」完璧に仕上げる、の「いつか」は絶対に来ない。
それなら、不完全なまま、未完成なまま、走るしかない。
走りながら、修正する。
それが、クオリティを上げ続ける方法の一つのように思うのです。
そうは言っても、未完成で不完全だと感じるものをリリースすることに抵抗を感じるのは当然です。
冒頭のストレングスファインダー資質でいうと、私は「最上志向」が第6位と上位に来ていますので、「ピン(=最高)のピンじゃないとイヤ」という傾向は結構強いです。
それが発動すると、現時点の過程がものすごく駄作のように思えて、仕方がなくなってくるのです。
これに対しては、もう慣れしかないと思います。
「現時点で出来たものが、ピンのピンなのだ」と無理矢理言い聞かせて、踏み出すことを重ねるしかない。
そして、もう一つは自己否定からくる完璧主義。
完全でないと愛されない、不完全な自分は価値がないという思い込みがあると、なかなかその一歩が踏み出せません。
自己否定を緩める一つの方法に、「不完全でダメだと思っている自分を、最高だということにしてしまう」というものがあります。
そこに根拠を求めると、また苦しくなりますので、「根拠も何もないけれど、勝手にそうだということにする」のが一番なのかもしれません。
それでも納得できなければ、
満月のお月さまも綺麗ですが、輝きが強すぎてどこか近づきがたい感じがする。
けれど、十六夜のお月さまは、少し影があって優しい感じがして親しみやすい。
そんなふうに感じることもあるか、くらいに考えてみると楽かもしれません。
いまの自分は不完全で未完成かもしれない。
けれどその今の自分が、最高の自分。
永遠に来ない「いつか」を待つよりは、その不完全で未完成なまま、走ろう。
不完全だろうが、
未完成だろうが、
β版だろうが、
準備不足だろうが、
エゴが騒ごうが、
怖れがあろうが、
そのままの自分で走れ!
いま、そのままの自分で愛されてしまえ!
走るって、愛されるって、きっとそういうことだから。