「自分の道を歩く」
とは、何も真っ直ぐキラキラした道ばかりを歩くことではない。
真っ直ぐのときもあるけれど、私の道はときに曲がりくねって、ときにオバケが出て、ときに分かれ道があったりする道だ。
因果なもので、こうしてたくさんの情報に触れることができることになったいま、周りを歩く他の誰かの道がキレイに見えることもある。
どうしたって、その舗装されてたり、動く歩道になっていたり、キラキラのショーウィンドウがあったりする道が気になるさ。
振り返れば、自分の道は穴ぼこだらけで、でこぼこしていて、ときに細くなったり、障害物競走みたいなアトラクションがあったり。
「ねえ、どうやったら、そんな道を歩けるの?」
誰かに聞いたそれを、同じように真似したくもなる。
もちろん、それで運よく同じような道を歩けるようになることもある。
けれど、そうなったとしてもふと周りを見ると、雄大な山に抱かれたコテージや、満点の星空の見える静かな海辺の道を歩いている人が気になりだす。
「ねえ、どうやったら、そんな道を歩けるの?」
また誰かに聞いたそれを、同じように真似したくもなる。
今度もうまくいくかもしれない。
運よく、同じような道を歩けるようになることもある。
けれど、そうなったとしても、求めていた感情は長続きしない。
それどころか、あの曲がりくねった道に何か忘れものをしてしまったような夢を見る。
気づけば、穴ぼこだらけの、でこぼこの、あの道がどこにあったのかすら、忘れてしまっている。
それは、そうだ。
振り返ってみれば、そのキラキラした道も海辺の道も、もとのでこぼこだらけの道からずっとつながっていた。
飛び移ったように見えたその道は、でこぼこだらけのあの道だった。
迷い、戸惑い、落ち込み、沈み、諦め、自棄になり、暴れ、虚勢を張って、暴れて、歩いてきた、あの道だった。
たとえほんの刹那でも、その道から外れたことなど、なかった。
わたしはわたしの道をずっと歩いてきた。
自分ではない何かに惑わされて、書きたいことが分からなくなったりもしたけれど、ようやくここにもどってきた。
いま、私はお金の稼ぎ方について何か語れるものはない。
恋愛の機微について、何かを語るほど経験豊富ではない。
これを読むあなたに、何か役立つライフハックの知識を語ることもできない。
それは、私ではない誰か別の方に任せる。
それでも、私は、
大切な人との別離の、悲しみと孤独を知っている。
現実に心が圧し潰されそうなときに見た、八重桜の美しさを知っている。
15年間感じることが怖くて、蓋をするしかないほどの寂しさがあるこを知っている。
不在を感じることが怖くて、名前を呼ぶことができないことがあることを知っている。
その奥底には、ほのかに暖かな愛があることを知っている。
夏の陽射しの下に響く蝉時雨に、その大切な人の声があることを知っている。
私は、
これを読んでいるあなたの傷を癒したりすることはできないけれど、
傷を愛することを表現することができる。
悲しみの際にこそ、美しさがあることを示すことができる。
これからも、私はこの曲がりくねった穴だらけのでこぼこの道の上で、それを表現し続ける。
それが、わたしのいきるみち。