もう平成も終わろうとするご時世の中で、だいぶ薄れてきてはいると思うが、
なぜ一般的な社会通念として、
男性は強くなくてはならない
男が人前で泣くのはみっともない
男だったらうじうじするな
というような価値観が今まであったのだろう。
それは「交通ルールを守りましょう」、「街をきれいに」というような標語のように、現象面は逆だからなのかもしれない。
ここのところ家族や両親のことを思い出して、感情が揺れて涙を流すことがあった。
「涙を流す」というのは私はいいことだと思っていて、心の奥底に溜まっていたいろんなものを洗い流して、浄化してくれると感じる。
映画館で大泣きした帰り道は、なぜかとてもすっきりしているように。
「泣くこと」というのはとても大事で、それを無理やり抑えこんで押し込んでいると、身も心も硬直してどこかに無理が出てくる。
女性に比べて感情に疎い男性の方にとって「泣くこと」はなおさら大切なように見える。
こんなところで泣くのは、男らしくない
泣くのは弱いから、だから我慢しないといけない
泣いたらどこまでも依存してしまいそうで怖い
というような観念があって、なかなか泣けない男性は多いように思う。
かくいう私も、両親との別離のあとの15年くらいの間、ほとんど泣いた記憶がない。
それだけ感情を切っていた、ということなのだろう。
泣ける、ということは「自分に正直になる」ということだと思う。
そして、「正直な人」を周りは放っておかないとも思う。
さて、そんな大切な「泣くこと」を、なぜこれまで男性は禁じてきたのだろう。
それは逆説的ではあるのだが、実際は男性の方が弱いから、なのではないだろうか。
20世紀後半に飛躍的に研究が進んだ遺伝子工学・分子生物が明らかにしたのは、生命はまず「XXの女性」として産まれ、そこから特殊な遺伝子を持つ者のみが「XYの男性」につくりかえられる、ということだった。
「XYの男性」は生命本来の仕様からカスタマイズされたいびつな生物であり、「XXの女性」に比べて脆く弱い。
世界のほぼすべての地域において、男性よりも女性の方が平均寿命が長いことが、それを端的に表している。
男性の方が、ストレスや環境の変化や外的要因に弱く、すぐに疾患を発症するのだ。
そんな「脆いXXの男性」が社会の中で優位な地位を占めいてたのが、これまでの社会なのだろう。
それが行き過ぎると「競争」や「分離」というものが激しくなり、収拾がつかなくなるのだろう。
そもそもが脆くて弱い男性と、生命の基本仕様である女性。
どれだけ虚勢を張っても、背中のチャックを開けると女性以上に女々しくてうじうじ湿っているのがオトコ。
どれだけ可憐なお姫さまでも、メイクの下は男性以上に果断で勇気があって44マグナムを隠し持っているのがオンナ。
実際にはそうなのだから、それを隠すために「男は強くなくてはいけない」という社会的通念が生まれたのかもしれない。
もう無理して虚勢を張ることもないのだ。
自分一人ででも、泣くことを許可できた男性こそ、強いのだから。
21世紀は女性性の時代、統合の時代だと言われる。
2度の世界大戦まで引き起こすほどに「競争」や「分離」といった男性性が極まった20世紀から、その揺り返しなのかもしれない。
その揺り返しが中庸なところで止まったとき。
そのとき、はたして男性はどんな役割を担うようになるのだろうか。
カカア天下で尻に敷かれる夫なのだろうか。
イクメンや草食系男子という語が表現する像だろうか。
巫女にかしずく神官、というのが今の私のイメージに近いのだが、はたしてどうだろうか。