休日の昼下がり、息子と「自転車ドライブ」に出た。
秋の風が頬を抱くのが、心地よい。
同じ気温の春先とは違う心地よさ。
あちらはこれから徐々に気温が上がっていくという一種の「暑苦しさ」があるのだが、この時期の急須に入れた緑茶が冷めていく自然な心地よさがある。
一年で最も気持ちのいい季節だと思うし、この時期の青空の透き通った色が好きだ。
いろんな道をぐるぐると通っているうちに、いつの間にか久しく訪れていなかった公園の近くに来た。
遊園地にある「コーヒーカップ」の遊具が置いてあるが、なぜか息子は「ティーカップの公園」といつも呼んでいた。
久しぶりに遊ぶか、との問いに頷く息子。
「コーヒーカップ」はやらなかったが、「ターザンロープ」を久しぶりに堪能したようだ。
以前は抱きかかえてロープに捕まらせていたのだが、その日の息子は自分一人でロープに捕まって遊ぶようになっていた。
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一通り遊んだ後で、ハロウィンの仮想をした子どもたちの集団が公園を通っていった。
ハロウィンにしても、ほんの少し前まではごく限られた人たちしか楽しんでいなかったのが、今では市場規模でクリスマスを越えるとのニュースも見た。
時が移ろうのが早いのは、毎日に没頭しているからなのだろうか。
そんなことを考えてながら、帰ろうかとしていると、息子が一人の男の子を凝視していた。
青いサッカーの「9番」のユニフォームを着た男の子。
聞けば、保育園で一番仲のよかった一つ上の学年の友達らしい。
今年の春から小学校に上がって、離れ離れになってしまったその友達の名前は聞いていた。
ほどなく青いユニフォームの彼も気づいたようで、声をかけてくれた。
せっかくだから、一緒に遊んで行ったら?
そう声をかけても、奥ゆかしい息子は、うーん、と煮え切らない様子だった。
突然、信じられない僥倖が訪れると、人は息子のように固まって受け取れないことがある。
生きていれば何かにつけて何かを得たい、人の心を掴みたい、願望を叶えたい、と思うのは自然なことだが、変化とは急にではなく徐々に変わっていく方がいいのかもしれない。
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ようやく意を決した息子は、ユニフォームの彼に声をかけたようだった。
西の空に沈みゆく夕陽のつくる影のように、幸せな邂逅の時間が伸びたようだった。
透き通った青い空は、もう暖色のグラデーションに染まっていた。
これがもう来月になると、オレンジの色合いが濃くなり、晩秋の寂しさを引き立てる。
自分の手足もぼんやりと薄暗く見えなくなるまで、夢中で走り回ったあの頃。
息子を眺めながら、そんな昔の色合いを思い出していた。
私も幼稚園とは違う学区の小学校へ入学したため、多くの友だちとそこで別れた。
一番仲の良かった近所に住んでいたケンちゃんと、同じように小学校に上がってから、何度か遊んだ記憶が甦った。
彼は今は何をしているのだろうか。
もうそれも知りようもないが、それでも、
いつか、また会える。
そんな信仰にも似た確信めいた言葉が、私の胸に去来した。
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いつになく息子はハイテンションで、ユニフォームの彼の家まで一緒に送ってからの帰り道、彼の指定席である自転車の前カゴで
また遊びたいな
と呟いた。
私はそれを聞いて、ペダルを漕ぎながら確信をもって答えた。
ああ、また会えるさ。
どっぷりと、遠き山に陽は落ちたようだ。
自転車のライトが自動で点いて、暗くなった車道を照らしていた。