さて、断酒5日目である。
立冬を臨む霜月の小雨の降る橋の上で「断酒」という史上最大の手放しを決意すること。 - 大嵜 直人のブログ
今日は私の断酒にとって一つの挑戦があった。
気の置けない仲間との「飲み会」があったのである。
もともと断酒の前に決まっていた予定だったが、結果的には大丈夫だった。
断酒を続けられている。
それでも行く前、陽が沈む頃になるとソワソワしだして、喉が渇いた感覚を覚えていた。
いつもは水分を抑え気味にして一杯目の愉悦を最大化するのだが、今日は行きしなにペットボトルのレモン風味の炭酸水を買って飲んで、それを紛らわせた。
「お酒を飲まない飲み会を楽しめるだろうか?」と不安になりつつも、純粋に食事と会話だけという飲み会に参加するのは、ことのほか新鮮な感覚だった。
むしろ、気の置けない仲間たちの話や、美味しい料理をクリアな感覚で楽しむことができた。
なんだ、飲まなくても至極楽しいじゃん、「飲み会」。
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さて、お酒を主体的に飲まない飲み会に参加してみて、感じたこと。
私はお酒に何を求めてきたのだろうか?
思うに、「お酒が好き」という言葉は二重の意味を含んでいる。
一つは、お酒の香り、味といった「飲料としてのお酒そのもの」が「好き」だということ。
日本酒やワインの銘柄に詳しかったり、モルトの違いを楽しんだりする「好き」という意味。
もう一つは、お酒による「酩酊」とそれがもたらす諸々が「好き」という意味。
もちろん、きれいに二分割できるものでもなくて、前者7割・後者3割や、前者と後者半々、というようなモザイク模様になるなのだろう。
けれど、この二つは結構な違いがあると最近つとに思う。
私はといえば、後者の割合の方が高いタチの愛飲家だった。
そして、断酒について調べれば調べるほど、アルコールへの依存や中毒に至るのは、後者の「好き」の方が危険だということだ。
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私は以前は外でしか飲まなかった。
けれど、沈んだ孤独な夜を紛らわせるため、いつしか家でも飲むようになった。
孤独を紛らわせたり、沈んだ気分を酒で紛らわすことが本当に有効かどうかについては、別のエントリーで書こうと思うが、いつしか家で飲むことが習慣化してしまっていた。
そうまでしてお酒を飲むことで、私が本当に欲しかったものとは、何だったのだろうか。
そして、それはお酒でしか得られないものだったのだろうか。
今日の「飲み会」に限って言えば、お酒でなくては得られないと思い込んでいたものは、すべて飲まなくてもあった。
断酒は、いろいろなことを考えさせてくれる。
それは、身を置く環境を変えることが、自分を変える最も有効な方法の一つであるということの証明でもあると思う。
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帰り道、まだ11月も上旬だというのに、街はクリスマスの装飾が。
そんな風景を楽しみながら、地下鉄でこのエントリーを書くことができた。
すばらしきかな、断酒の恩恵。