大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「嫌われる勇気」私論 ~書くことへの覚悟

「他人から嫌われる」ということは、2つのパターンがあるように思う。

一つは、自分が自分のことを嫌いで、それを他人に投影しているパターン。

もう一つは、純粋に他人が自分を嫌っているパターン。

その上でなのだが、自分に正直に生きていくほど、どうしても後者が現れることが避けられないようだ。

また逆に、そうした人が現れる場面では、自分を生きる覚悟が求められているように思う。

こうして「文章を書く」ということも、そうした覚悟が必要なようだ。

今日、SNS上でネガティブなコメントをもらった。

私にしてはめずらしいのだが、女々しくなるので、ここでその内容どうこうを書きたいわけではない。

重要なのは、特に炎上させようとしたり、賛否両論があるネタだったり、極端な意見を述べたつもりはないのに、「全く面識のない人から、批判的なコメントをもらった」ということである。

これは、私のこれまでのSNSやらブログを書いてきた中で、初めての出来事だった。

当然気づいていないだけで、今まであったかもしれないが、公の場で(面と向かって)そういったことを言われたのは、初めてであった。

「他人が自分を嫌っている」と「自分」が感じる場合、時としてそれは「自分が自分を嫌っているからそう見える」場合がある。

お母さんは私のことが嫌いだから、あんなことを言ってくるんだ。

彼女は僕のことが嫌いだから、あんなことをしたんだ。

上司は私のことが嫌いだから、あんなに怒るんだ。

そう思っていたことが、立場が変われば「あれは愛情からの言動だったんだ・・・」と気づくことがある。

往々にして、そのすれ違いの原因となるのは、「自分が自分のことを認められない部分や、嫌っている部分があるために、相手の言動にそれを投影して見てしまう」ということである。

「どうせ私は嫌われる」「どうせ僕は愛されない」という思いこみ(観念、ビリーフ)といったものがあると、世界をそのように見てしまうのだ。

これは私もよく陥りがちで、気分の落ちているときなどは、周りの人の言動が非常に気になったり、自分を嫌っているように見えてしまうものである。

ところが、先の立場が変わった例ではないが、実際に相手に確認してみると、そんなことは全くなくて、相手は何も気にしていないか、逆に好意を持っているなんてことがある。

まあ、それを実際に確認する、というのもハードルが高いのだが、そうなのだ。

これが、冒頭で述べた「他人から嫌われる」パターンのうちの前者である。

もう一つのパターン。

純粋に、他人が私を嫌っている、という場合。

私はピーマンが嫌いだ。

私は赤い色が嫌いだ。

私は草いきれの匂いが嫌いだ。

そうした嫌いなものは誰にでも存在する。

ここで注意したいのは、「ピーマン」も「赤い色」も「草いきれの匂い」も、それぞれが何か問題があるわけではない。

何の問題もなく、完全なピーマンでも、世の中にはそれを嫌う人がいるのだ。

人が生きるこの世界は、ある意味で悲しいがそういう世界である。

その逆に、「私はイチゴが好き」だったとしても、イチゴに何か問題があるわけではない。

そして、私が大好きなイチゴを、世界の誰もが好きなわけでもない。

自分が何者かということを深く自覚していくにしたがって、それを「好き」と言う人も増えるし、逆にそれを「嫌い」という人も増える。

「好き」とも「嫌い」とも言われないのは、何ものにもなり切れていない可能性がある。

嫌われることを恐れて、当たり障りのない状態でいようとすると、誰の記憶にも残らない。

自分がピーマンであれば、深い緑色の身体で、あの苦みをもって、少し青臭い香りを持ってこそ、「それが好きだ」という人が現れる。

もちろん、その逆も然り、だ。

誰かに嫌われたり批判されたりする、ということは

誰かに愛される、ということ。

逆に誰にも嫌われず誰にも批判されない、ということは

誰の目にも留まっていない、ということ。

アンチのいない選手とは、すなわち活躍していない選手のことなのだという当たり前の事実に気づかされる。

嫌われて野次られて叩かれてこそ、一軍に出ているプロ野球選手の証なのだ。

もちろん、あえて誰かに嫌われるように仕向ける必要はない。

けれど、嫌われて上等なのだ。

自己嫌悪の投影でない「他人からの嫌悪」を受けた時は、ある意味で自分自身を生きられていると考えてよい。

もちろん、私も人から嫌われることはイヤだ。

批判的な言葉を投げられていい気はしないし、いろいろとネガティブに考えてしまう。

けれども、ピーマンを嫌いな人がいるように、私を嫌いな人がいることも受け入れよう。

それを受け入れることが、「書くことへの覚悟」なのだと思うのだ。

よく分からない誰かから嫌われる怖れに負けて、当たり障りのない文章を書くのか。

それとも、自分の周りの大切な人に向けて、自分を愛してくれる人たちに向けて、「自分にしか書けない」文章を書くのか。

私の大切なことは、何なのか。

それは、誰かから嫌われても、やりたいことなのか。

私の書きたいことは、何なのか。

もしかしたらそれが、自分の知らないところで誰かを傷つけることになっても、書きたいことなのか。

私の伝えたいことは、何なのか。

人から嫌われるリスクを負っても、それは伝えたいことなのか。

それが、問われているように思うのだ。

これは、「ものを書く」ということよりも、「どう生きるか」という自分の生の根源的な問いの部分に当たる。

いますぐ答えがでなくてもいい。

けれども、おそらく、一生この問いは自問し続ける問いになる気がする。

そんなことを書いていて思い出したのだが、最近この私のブログを読んで、面識もないところを「よかったです」と感想を頂くことが何度かあった。

この上なく、ありがたい。

やはり、好かれることと嫌われることは表裏一体のようだ。

ほんとうに、世の中よくできている。