歯医者に口を開けているとき、
ただ時間が早く過ぎるのを我慢するだけだ。
実は本当に痛くて怖いのは、
長く待たされる待合室の時間なのかもしれない。
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「痛み」の中にいるとき、不思議と痛みは感じない。
「痛み」に限らず、自分の感じていることを理解するためには、
ただ観る人になる必要がある。
「痛み」の中にいるとき、それは驚くほどに静かだ。
台風は、遠いほどに荒れ狂っているように見えるが、
その中心はまったくの無風だ。
どんなに高い波が列をなす嵐も、
光の届かないほど深い底には、静かな闇が広がっている。
暴風も、静寂も、
痛みも、癒しも、
すべてひとつなぎのうねりの中にいる。
そして、
「痛み」が通り過ぎると、「癒し」がやってくる。
その「癒し」が通り過ぎると、また別の「痛み」がそっと訪れる。
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私は座り、ただ目を閉じる。
自分の顔、かたち、すがた、声、想念・・・
それはそれとして、
それをただ観る人になる。
やがてそこへ、ありとあらゆるものがやってくる。
その身を斬るような痛みが訪れる。
この身をよじるような喜びが訪れる。
凍えるような寂しさがやってくる。
春暖のような繋がりがやってくる。
真夏の夕立の雷鳴のような怒りが噴き出る。
丑の刻に深々と積もる雪のような諦念が滲み出る。
南国の孔雀の羽根のような極彩色が浮き出てくる。
色彩のない白と黒の世界に沈み込む。
呑み込まれるような好意を寄せられる。
蛇蝎に向けるような敵意を寄せられる。
巨大な建築物が崩れ落ちる轟音が聞こえてくる。
天衣無縫のような天上の音楽が聴こえてくる。
掌に触れた刹那に消える粉雪のような儚さが見えてくる。
嵐の前でしなやかに揺れる柳のような強さが見てくる。
星彩と福音とともに大天使がやってくる。
遠雷と瘴気とともに魑魅魍魎がやってくる。
けれども、私はどこへも行かない。
ここに、いる。
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それらは、みな「観る人」になることで見えてくる。
それでも、それらは何もしない。
ただ、通り過ぎるだけだ。
ただ、通り過ぎるだけ。
そして私は、それらをただ観るだけだ。
そのあとに残るのは、耳が痛いほどの、静寂。
しばらくすると、またそれらがやってくる。
通り過ぎる。
また訪れる、静寂。
やはり、
その静寂は、愛と呼ぶべきものかもしれない。
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静かに私は目を開ける。
私はどこにも行っていない。
私はどこにも行かない。
いまここに、いる。