「痛み」について。
「痛み」は、最初はある特定の事象への反応として現れる。
愛する者との別離。
打ち砕かれた青い夢。
周囲からの無理解と批判。
子どもの治らぬ病。
もう戻らないあの美しい時間。
届かなかった胸の奥底の想い。
・・・それらは悲しさと寂しさを通して、
私たちの心に空虚な穴を開ける。
まるで自分の大切な一部が引きちぎられたかのように感じる、その穴。
その穴こそが、私たちに「痛み」をもたらす。
=
そうした「痛み」が生まれるとき、
「癒し」もまた必ず同時に生まれる。
冬至を過ぎていくと、
ほのかに夕闇の訪れが遅くなっていくように、
紅蓮の炎のように身を焦がす高熱も、
峠を越えるといつしか解熱していくように、
吹雪のように散っていった花びらの跡に、
新芽の緑色が芽吹くように、
「痛み」が起こるとき、必ず「癒し」も起こる。
そうした「痛み」と「癒し」の螺旋の先にあるもの、
それはすべての痛みの根源にある「痛み」そのものである。
キルケゴールが「死に至る病」と表現し、
リルケが「言葉で言い表せないほどの孤独」と評し、
ミラン・クンデラが「存在の耐えられない軽さ」と名付けた、
その根源的な「痛み」。
それは、母親の胎内からこの世に「切り落とされた」瞬間から、
誰しもが抱き続ける孤独のことなのかもしれない。
=
その引きちぎられた心の穴がひどく疼くとき、
執着するために過去を思い出すのも辛いとき、
凍えるような孤独に苛まれるとき、
未来を描けずどうしようもなく不安なとき、
その根源的な痛みに耐えかねるとき、
私は泣くことを学んだ。
泣いているその瞬間、嗚咽すればするほど、
不思議と心の奥底の湖は穏やかに凪いでいた。
その瞬間、私は痛みとともにある。
それでも、暖かい涙が伝う、
その瞬間は大丈夫なのだ。
私は座り、目を閉じ、息を吐く。
その瞬間は、必ず耐えられた。
いま、この瞬間は大丈夫なのだ。
=
美しさは残酷さの際にある。
母が亡くなったあの年の春、私は境内でしだれ桜を眺めていた。
晩春の麗らかな陽気のもと、
呆然と過去も未来も考えられない中、
ただ焦点の合わない目で
私はそのしだれ桜を眺めていた。
なぜか私は、当時の画素数の粗い携帯電話で、
そのしだれ桜を撮っていた。
母の死を思い出すとき、
私はあの焦点のぼやけたピンク色を思い出す。
それでも、私は大丈夫だった。
=
春からは遠い寒空のもと、私はなぜか
その美しいピンク色と痛みを思い出していた。
今日は美しい三日月に見守られていた。
今日も、いい日だった。