大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

神はあらゆるもののなかにある

今日は、久しぶりにチャック・スペザーノ博士の名著「傷つくならば、それは愛ではない」より。

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今年の元旦から始めた1日1項目の写経も、もう早や348項目め。
12月18日の今日が、今年の352日目だから、なかなかいいペースで続けられている。
しかし考えてみると、今年もあと10日ちょっとという事実に愕然としてしまう。
そんな今日は、神の愛についての一節から少し考えたことを綴ってみたい。

「あらゆるもののなかに神を見るとき、愛があなたを『故郷』に連れていく」

「故郷」にふれたとき、あなたの生が、いかに大切にされているかがわかることでしょう。あなたのヴィジョンによってあらゆるもののなかに愛が見え、どれほど愛されているのかを悟るのです。このことがわかると、そんなに頑張る必要はなくなります。ただ、自分に受けとらせてあげればよいのですから。

すべてのものや状況のなかに神を見るとき、天国の状態である至福とエクスタシーに導かれます。神はあなたが知っている百万倍もの愛をあなたにそそいでいることを、よろこびのなかで理解するはずです。神はあらゆるもののなかにあり、その愛であなたをあますことなく包んでいるのです。これを知ったとき、あなたは自分で自分の邪魔をするのをやめて、痛みや誤った自己概念をすすんで手放すようになります。あなた自身がその大きな愛に引き寄せられているのを感じ、地上に天国をもたらそうとすることでしょう。

■今日はすべてのものや状況のなかに神を見ましょう。

あなたの子供たち、ともに働く人やパートナーの目のなかに、神がいるのを見てください。

チャック・スペザーノ博士

「傷つくならば、それは愛ではない」p.439

スペザーノ博士の言う「神」が、どのような概念を指すのかが非常に興味深い。

私は博士の他の著作を読んでいないので、博士の指す「神」がどのような文脈で書かれているのかが気になるところだ。

けれども、ここで言う「神はあらゆるもののなかにある」という感覚は、日本人にとっては結構なじみの深い感覚のように思う。

スペザーノ博士の「神」が宗教的なものを指しているのか分からないので、あくまで一般論としてだが、

西洋のキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の大きな特徴として「一神教」という面がある。

非常に乱暴に括ってしまうことを承知で言えば、われわれ人間は、神様の指し示す方向に向かって生きることで、最終的には救済されるという方向性を持つ。

そして神様の指し示す方向を教えてくれるのが、マホメットやイエスのような預言者(神の「言」葉を「預」かる「者」)である。

つまり、西洋においては神様対人間、一対多の関係とはよく言われる。

全知全能の神に対して、不完全で愚かで間違いを犯す人間、という対比。
(だから一神教のもとでは「厳しい戒律」が多い)

古くからのギリシャ神話や北欧神話だと多くの神様が登場するのに、時代が下っていくとこうした一神教の宗教が残っていったのは、興味深い。

それに対して、東洋の仏教、ヒンズー教、神道は「多神教」と言われる。

この日本は八百万の神様の住まうことろ。

人も虫も草木も花も家も鍋も縫い針も、いたるところに神様がいる。

かつてお釈迦様は「一切衆生悉有仏性(ありとあらゆるものは、すべて仏になる性質をもっている)」と説いた。

東洋では、不思議と目の前の人やものすべてに、神性が宿るとされてきた。

つまりは、神様対神様、多対多の関係である。

あなたはわたし、わたしはあなた、どちらも不完全で完全な神様ですよ、と。

実際に日本書紀や古事記といった日本の神話を読んでいると、嫉妬したり癇癪を起したり拗ねたりと、人間臭い神様の話ばかりだ。

亡くなった人を「ほとけさま」と呼ぶのも、その最たる表れだ。

西洋では決して「かみさま」になったとは言わず、「天に召された」と表現する。

決して、どちらの考え方が優れているという話ではなく、「神性」に対する考え方の違いなのだろうと思う。

それを前提とすると、スペザーノ博士のこの一説は興味深いものがある。

以前、心が痛んでしんどくて辛くて、どうしようもなかった時期があった。

どれだけ努力を尽くしても、何一つ変わらない目の前の現実世界に絶望していた時期だった。

あの時期、最終的には手をあわせて祈っていたことを思い出す。

神さまなのか仏さまなのか、最早分からなかったが、ひたすらに祈っていた。

もうこの現実が変わらないのならば、せめて私の心に平穏を与えてください、と。

不思議とその願いは叶えられたように覚えている。

いまは、何かを祈る代わりに、目を閉じて座る時間が増えた。

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湘南の海岸や、

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札幌のモエレ沼公園で聴いたクリスタルボウルの音色の下で目を閉じる時間が心地よかったからかもしれない。

スペザーノ博士の言う通り、
「神はあらゆるもののなかにある」
としたら、「祈る対象」は「なくなっていく」のかもしれない。

自分自身が、実はあなた自身でもあり、
神様であり、仏様であり、
雲であり、花であり、月であり、

クリスタルボウルであり、その音色であり、

そして、祈りであるのだから。