どうしようもなく悲しいとき、
人生の困難に直面したとき、
出口のない迷路に迷い込んだとき、
人を慰め、励まし、元気づけてくれるものがある。
それは、昔の写真の笑顔だったり、美しい詩集であったり、はっと目に留まった風景であったり、仲間との会話であったり、応援している選手の活躍する姿だったり、
人によってさまざまだ。
けれども、ほんとうに辛いときや、しんどいとき、最後に人を慰めてくれるのは音楽のような気がする。
目で何かを認識する文学や絵画、舌の上を転がるような美食、鼻腔をくすぐる花の香り、肌の質感を味わう官能・・・そのどれもが、能動的な喜びのように思う。
しかし、何かを聴く、ということは受動的のように思える。
意識して文字を追ったり、美食のメニューや場所を考えたり、香りの根っこを探しに行ったり、肌を合わせる相手のことを考えたり・・・そうした主体的な行動で得られる喜びや励ましと、音楽は少しだけ違う気がするのだ。
音楽は「時間の芸術」と呼ばれるように、ただ身体を横たえて、受動的にその音色の流れに身を寄せることができる。
それは、目を閉じたくなるほど、何も話したくないほど、この身体を1ミリも動かしたくないほど、傷ついた心と身体にとって、なによりもありがたいことなのだと思うのだ。
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そんな、つらいときに聴きたい音楽。
サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」は、私にとってその代表格だ。
リリースは1970年。
私はまだ生まれてもいない時代の、名曲中の名曲。
原題は「Bridge over Troubled Water」なのだが、この「明日に架ける橋」という邦題を付けた訳者は天才だと思う。
静寂の暗闇から右手の中指を伸ばして、何かを探すような歌い出し。
そこにあるのは、静かに沈んだ、しかしどうしようもなく重い、痛み。
沈んだ心をアート・ガーファンクルの人ではないもののような、やさしい音色をした歌声が、切々を人々の寂しさ、辛さ、困難を歌い上げる。
そのやさしい音色は、しかし確信をもって語りかける。
あなたを必ず助けよう、と。
「明日に架ける橋」が、閉じたまぶたの裏に見えてきそうになる。
そのリアリティを支えるのが、ポール・サイモンのバックコーラス。
歌声でこの曲の緊張感と盛り上げ方は、神がかっている。
やがて歌声は収縮し、再び静かに傷んだ心に寄り添う。
やがて音楽は終局に向かい、大きな転換を迎える。
ちょうどその「明日に架ける橋」を渡る中間のように、どちらつかずの不安定な状態になりながらも、ガーファンクルの声は明確な意思を指し示す。
どこまでもまっすぐ、あなたの心に寄り添おうと歌い上げるガーファンクルの歌声。
それに呼応して、歩みをともにするサイモンのコーラス。
もう、これ以上のものは作れない。
この曲を最後に、彼らが解散したのも頷けるような、そんな珠玉の名曲。
どれだけこの曲に救われた時間があったか、分からない。
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いまこうして書いていて、少し思うことがある。
いったいこの曲を書いたサイモンは、誰に向かって書いたのだろうか。
かけがえのないパートナーだろうか。
愛する子どもだろうか。
それとも、大切な友人だろうか。
そのどれでも説得力がある気はするし、聴く人の数だけ正解があるのだろう。
けれども、いま私が聴いていて感じるのは、
自分自身に向けて
というのが、最も心の琴線に触れる。
どんなに傷ついて苦しくて辛くても、
わたしだけは、わたし自身を裏切らない。
「明日に架ける橋」のように、
この身を横たえてでも、わたし自身に寄り添っていく。
悲しみも痛みも、どこまでもわたしのもの。
そのままに感じることができれば、それは昇華していく。
どれだけ痛く悲しく辛くても、
わたしがいつまでも一緒にいるから、だいじょうぶ。
わたしの最高の味方は、いつでもすぐそばにいる。
彼らがそんなふうに歌っていると思うと、何とも勇気をもらえるのである。
わたしがわたし自身の味方だったなら、どんな困難も悲しみも、きっと感じ尽すことができる。
そんな気がするのだ。
やはり、音楽はいい。