人と話すのは面白い。
自分の知らない情報や視点を持っているし、
(関係性が近すぎるとそれがストレスになるのだが)
「話す」は「放す」と言われるとおり、
自分の中で考えていることを口にすることで、
頭の中がクリアになる。
そして、それを「書いて」形にすることで、
その情報を抽象化し、他に応用することができる。
個別の事物
→ 帰納(一般化、抽象化)
→ 法則(気づき)
→ 演繹(応用、転用)
という一連のプロセスを得ることができる。
昨日は断酒について知人と話しているうちに、
原因と結果の気づきを得たことをSNSに投稿してみた。
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よく飲みに行く知人の方に、断酒していることを伝えてみた。
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知人「なんでやめたんですか?何かやらかしたんですか?」
私「いや、毎回何がしかはやらかしてましたが…そうじゃなくて、何となく、ですかね」
知「いやー、最近僕も飲みすぎるんで、減らそうかなぁ」
その知人は伏見の大甚に二人で行くと、大徳利10本を転がすという剛の者。
いったい何を食べたらそんな肝臓になるのか。
私「いや、減らせて適量でやめれるなら、それが一番いいですよ」
知「僕もやめてみようかなぁ…でも、難しいなぁ」
私「何が難しいんですか?」
知「お酒を飲まなくなったら、その飲んでた時間、シラフでいることになるから、何をしたらいいか不安かなぁ」
私「あー、なるほど、確かにわかるかも」
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・・・というようなやりとりだったのだが、後から考えると示唆に満ちていて。
人は、目に見える「理」がないと、なかなか動きにくい。
そして、そのときに欲しがる「理」とは、「原因と結果」でいうところの「原因」なのだ。
そんで、もう一個深掘りすると、往々にして人の考える「原因と結果」は逆の場合がある。
ガラパゴスゾウガメは、最初からあんなデカい身体だから
ガラパゴス諸島に移住したわけではなく、
ガラパゴス諸島に移住したから、あんな身体になったのだ。
何かやることがあるから、お酒をやめるのではなくて、
お酒をやめて時間があるから、何かやることが見つかるのだ。
人が無意識に求める「理(ことわり)」とは、それくらい、
あやふやなものかのかもしれない。
知人が酒を飲むかどうかは、知人が好きにすればいいことだが、
この気づきを我が身に置き換えてみると、
何かがあるから、幸せになるのではなく
イケメンでトークが上手いから、モテるのではなく
才能があるから、成功するのではなく
何かが出来るから、愛されるのではなく
その逆だ。
根拠なんて何にもいらない。
今のそのままで、幸せになっちまえ!
愛されちまえ!成功しちまえ!
ってことかもしれない。
と、ばばばっと書いてみたけれど、やっぱり人と話すのはおもしろいなぁ。
ということで、話の脈絡と何ら関係のない画像を貼って、原因と結果の思い込みを外してみる。
いや、ソフトクリームがあれば幸せだな・・・
おしまい。
2019.1.10
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とかく、人は原因と結果を結び付けたがる。
うまくいかなかったことや、傷ついたことは尚更そうだ。
「自分がもっとうまくやれば、こんな結果にならなかった」
「自分は引っ込み思案だから、友達が少ない」
「家庭があるから、それを守らないといけない」
というように。
けれども、ほんとのところは、
あまりその両者の関係に因果はないのかもしれないし、
ひょっとしたら原因と結果は逆なのかもしれない。
どれだけ死力を尽くしてうまくやっても、
天は味方せず失敗することはあるだろうし、
友達が少ないと思い込んでいることで、
引っ込み思案になっているのかもしれないし、
守らないといけないと思っている自分こそが、
実はすでに守られているのかもしれない。
ただ、事実がそこにあるだけ。
そこに何の原因と結果もないのかもしれない。
成功したり愛されたり幸せになるのに、
いまそままで、何の根拠も要らないのかもしれない。
まあ、いずれにしても真実は、
人はサービスエリアに寄ると、ソフトクリームを食べたくなる、ということだ。