心が閉じたとき、
男は黙り、女は自らの手を握る。
私もときに、いや、よく黙る。
気づくと、なぜだろうと考えていた。
かつてニーチェが、
事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
と述べたように、優れたアートや物語は、それを観る人の数だけ解釈を許してくれる。
そして柳田国男の民俗学や、ジョーゼフ・キャンベルの神話学を例に引くまでもなく、永く語り継がれるような物語や神話は、人々の意識の奥底に眠っている澱のようなものが表層に表れていると言える。
ときに、浦島太郎。
助けた亀に連れられた竜宮城で受け取った玉手箱は、なぜ彼を破滅させる「パンドラの函」でなければいけなかったのだろうか。
約束を破るという禁忌に対しての教育的な側面という割には、理不尽すぎると常々思っていた。
ときに、鶴の恩返し。
なぜ助けた鶴は、「女」に化けたのだろうか。
そして「布を織るところを見る」ことは、なぜ鶴にとってタブーだったのだろうか。
自らの美しい羽根を使ってまで布を織った鶴が、その身に鞭打って空に逃げ立つのは、あまりにも理不尽のようにも思える。
ときに、雪女伝説。
しんしんと雪の降り積もる一夜、床をともにした男の命を吸い取るのは、なぜ雪「女」でなくてはならなかったのだろうか。
配役が逆ならば山賊なり無法者として扱われて終わりのような気がするが、なぜ雪「女」は伝承に残るのは不思議でもある。
民俗学や神話学に明るい訳ではないが、それらは不思議に思うのだ。
もしかしたら目に見える表象の形と、逆が真実だと伝えているのかもしれない。
男性は罪悪感が強いと言われる。
罪悪感とは、「自分は罰せられるべきだ」「自分は幸せになってはいけない」と感じることで、あらゆる行動に影響し自らを牢獄のような環境に閉じ込めさせようとする。
女性と比べて腕力が強く、歴史的に見て社会的な権力のシンボルとなりやすい男性は、その力を持て余し、その拳を振るうのを怖れる。
誰かを傷つけるからだ。
生物学的な特徴である性器も、女性のそれを貫くような形をしている。
だからこそ、その罪悪感を越えて成熟した男性は大きな力を振るい、決断し変革を起こすことができ、ものごとを前に推し進める力を持つことができる。
いっぽうで、女性は無価値観が強いとされる。
無価値観とは、「私には何の価値もない」「私はここにいてはいけない」と感じることで、自己の存在を虚無と暗闇に落とす。
その裏側には、誰からも愛されてこなかった、誰も自分を愛していない、という凍えるような経験が横たわっており、社会的に「愛されること」がすなわち生存競争に残ることと同義だった女性が抱きやすい、と言われる。
愛されなければ、庇護されなければ、生きていけなかったからだ。
だからこそ、その無価値観を抱きしめて成熟した女性は、母性と呼ばれるような温かさと、全てを包み込み受容し、安らぎと癒し、自信を与えることができる。
男性は罪悪感を怖れ、女性は無価値観を怖れる。
ある恋人の二人がいるとする。
一方は、関係を終わらせようと別離を切り出している。
他方は、関係を続けようと別離を受け入れようとしない。
一方は、相手を振ることに対して罪悪感を感じている。
自分が相手を傷つけることに対して、罰せられるべきだ、と。
「相手を見捨てることに対しての怖れ」を感じている。
他方は、振られることに対して無価値観を感じている。
自分には価値がないから、相手の心が離れていく、と。
「相手から見捨てられることに対しての怖れ」を感じている。
表象的には、そう見える。
けれども、真実はそう見えるところと逆の方なのかもしれない。
実のところ、別離を切り出した方の裏側にあるのは、「自分が相手に見捨てられることに対しての怖れ」が強烈にある。
別離を切り出される方の裏側にあるのは、「自分が相手を見捨てることに対しての怖れ」が痛烈に存在する。
その最もコアな怖れを感じることが怖いから、それを感じることを薄める方を無意識的に選び取っている。
その怖れは、自分の存在を脅かすほどの恐怖。
その怖れがあることすら気づかないほどに、奥底に沈めた怖れ。
いちばんたいせつなことは、目に見えない。
サン・テグジュペリが「星の王子さま」の中で語ったことは、一つの真実だ。
表象に見える恐れは、その怖れが鏡合わせになった裏側なのかもしれない。
だとするなら、
男性は罪悪感を怖れ、女性は無価値観を怖れる。
というのは、実のところ真逆なのではないだろうか。
男性は無価値観を最も怖れ、女性は罪悪感を最も怖れる。
その怖れとコンプレックスは、セックスのときによくあらわれる。
男は何よりも自らが不能に「なる」ことを怖れ、女は男を不能に「する」ことを何よりも怖れる。
男は自らの価値を感じられないときを何よりも絶望し、女は相手を傷つけたと感じることを何よりも恐怖する。
文明が生まれてこのかた数千年もの間、多くの社会は男性優位なシステムを築いてきた。
それは、もしかしたら男性が、彼ら自身が最も怖れる無価値観を隠蔽するために築いてきたものなのかもしれないと思うのだ。
それは、おそらく女性にとっても都合がよかったのかもしれない。
力を振るうことによって生まれる罪悪感を、感じずに済むから。
浦島「太郎」は、竜宮城で「受け取った」函を開けることを怖れた。
それは、自らの無価値観を刺激する「受け取る」という所作に対する警鐘なのかもしれない。
「太郎」たちよ、決して「受け取って」はいけない、「受け取る」というのは、怖いものなのだぞ・・・
恩返しをした鶴は、大空に逃げ立つしかなかった。
どれだけ自分が犠牲にしても、恩義のある相手に尽くすことのできる「力」を見せてしまったら、相手の無価値観を刺激してしまう。
「鶴」たちよ、決して自らの正体を明かしてまで「与えて」はならない、お前のほんとうの姿が知られてしまえば、逃げ出すほかないのだぞ・・・
雪「女」は、一夜をともにした相手の命を吸い取るしかなかった。
この凍えるように冷たい身体を預けてしまったら、相手は体温を奪われ絶命するほかない。
「女」たちよ、決してすべてをさらけ出して相手に預けてはならない、お前のその無価値観に蝕まれた身体を温めることは、何人たりともできはしないのだぞ・・・
だからこそ、
浦島太郎は「男」でなければならなかったし、
恩返しをする鶴は「女」でなければならなかったし、
雪「女」は抱かれる側でなければならなかった。
悠久の時の流れの中で、澱のように積み重なっていったそんな「怖れ」たちが見え隠れするのは、私の穿ちすぎだろうか。
穿ちすぎでも、いいのかもしれない。
優れた物語は、観る人の数だけの解釈を許してくれるのだから。
さて、その「怖れ」はほんとうにそうなのだろうか。
浦島太郎が受け取った函は、パンドラの函でなくてもいいのではないだろうか。
自ら羽を毟って傷ついた鶴は、老夫婦に受け入れられて一緒に暮らしてもいいのではないか。
男の無価値観が癒されると、雪女の身体に温かな体温が宿るのではないだろうか。
無価値観と罪悪感に蓋をして抑えつけるために、男は黙り、女は自らの手を握る。
それはとても辛いことだけれども、そうしていた時間の分だけ、分かることもある。
そうした時間を過ごした分だけ、積み重なる愛もある。
「星の王子さま」の中で、王子さまと別れ際にキツネは言う。
きみのバラをかけがえのないものにしたのは、
きみが、バラのために費やした時間だったんだ
そんなにかたくなに黙らなくてもいい。
ただただ、ありがとう、と受け取ろう。
ニッコリと、微笑めばいい。
そんなに自らの手の置きどころに困らなくてもいい。
その体温が高熱を帯びようとも、凍えるように冷えようとも、与えよう。
それは、あなたの自由なる魂のために。
そして、あなたの周りのとてもたいせつな人のためにも。