子どもたちの自転車の補助輪を外した。
公園で偶然に会った友だちが、自転車に乗っていたのを見て、思い出したかのように「自転車の補助輪を外す!」と鼻息を荒くした息子氏。
しばらく乗っていなかった自転車を購入した店舗に持ち込んで、補助輪を外してもらう。
ストライダーの恩恵か、娘も息子も一瞬で乗りこなせるようになって驚く。
私自身のときを思い出すと、乗りこなすまでに随分と転んだような記憶があるが、いまはストライダーにせよ、何にせよ、時代はどんどん楽になっている。
苦労しなくても、楽に成功してもいい、というのが新しい価値観なのだろう。
まあ、単に私の運動神経が鈍かっただけという可能性もあるのだが・・・
補助輪がついてたときには全く乗りたがらず、親の自転車にばかり乗っていたのに、補助輪を外した途端に乗せろ乗せろとせがまれ、今日は3回も公園で練習することとなった。
自転車がそうであるように、怖さがあっても、走り出してしまった方が安定することもある。
ブレーキをかけて進まなくしているのは、実はほかでもない自分自身の思い込みや怖れという補助輪だったりする。
好配牌なのに3枚切れの北を引っ張りすぎて、聴牌チャンスを減らす、みたいな。
先行馬不在のメンバーでドスローの想定なのに、わざわざ後方から追走して前が詰まる、みたいな。
補助輪をつけて、怖れを抱えてぐずぐずしてる方が、よっぽどスピードも出なくて苦しかったりする。
補助輪、ブロック、ビリーフ、観念。
私自身の補助輪も、まだまだたんまりあるけれど、それを外す過程を楽しんでいこうと思う。
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というようなことを小さな先生たちに教えられて、今日はこれからまた新たな挑戦をしてみようと思う。
知人を紹介する文章を書く、という挑戦。
これまで、こうして好き勝手に書いてきたけれど、「誰かのために書く」ということは、なかなかにハードルが上がる。
昨日は心理的な抵抗からか、頭痛がしてきて寝てしまった。
ハードルを上げているのは、私自身の思い込みだったり、いい格好をしたいという見栄や、相手によく思われたいという自分の軸から外れたものだったり、文才への自身のなさだったり、そんなネバネバした見たくない自分の闇だったりする。
その闇に光を当てられたとき、また一つ補助輪は外せるのかもしれない。
見る人にとっては小さなことかもしれないけれど、私にとって大きな挑戦。
折しも今日は節分。
冬の終わりと春の始まりが集う日。
一つずつ、その経験を味わっていこうと思う。