毎日更新しなくてもいいと思うんだ。
それよりも、大切なことがある。
自分の魅力に、自分が惚れていればいいんだ。
自分の醜く汚い欲望を、自分が愛していればいいんだ。
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2017年の8月から、ここで毎日書いている。
毎日書かなきゃ、ダメなんだろうか?
という自問をよくしながら、一日立ち止まってしまったら、もう再び走り出すことができなくなりそうで、怖かった。
止まるのが怖くて、一日分は記事のストックを持っていた時期もあった。
お酒を飲んでいたときは、酔っ払うと更新は不可能だったから、それはそれで継続するのに有効な方法だった。
いまは、とくにストックもないし、いざとなったら一行と写真だけの更新でもいいかと思うし、書きたくなかったら書かなければいいとも思う。
それよりも、大切なことがあるからだ。
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「〇〇しないとダメだろうか?」「〇〇した方がいいのだろうか?」「〇〇せねばならないのだろうか?」という疑問が自分の中に生まれるときは、かならずパターンなんだ。
それは、「〇〇のためにする何か」をしようとしているに過ぎない。
痩せるために、夜は炭水化物を抜く、
健康維持のために、運動をする、
就職のために、資格試験を受ける、
人脈をつくるために、交流会に出る、
フォロワーを増やすために、発信内容を考える、
愛されるために、我慢する・・・
結局それは、自分の外に何らかの原因を見つけようとするだけだ。
自分の内側をないがしろにして、嘘ついて、動いているように見せかけているだけだ。
そんなことをしてわざわざ疲弊するよりも、何の役にも立たなくても、ためにならなくても、「やってること自体がゴール」になることを少しずつ重ねた方がいい。
ひたすらゴロゴロする、
ゆっくり散歩する、
クソ寒いのにコンビニでアイスを買って食べる、
着てみたい服を着る、
カラオケで一人で3時間歌う、
ジャンクフードを思い切り食べる、
徹夜で好きな映画なりアニメなりを観る・・・
そんな役に立たなくて、誰のためにもならなくて、ためにもならないことが、自分自身を中心に引き戻してくれる。
何でそんなこと書くか?
私がずっとそうだったからだ。
その「ためにする」旅路は、蟻地獄に嵌った蟻のように、もがけばもがくほど苦しくなる。
自分の最も怖れること、避けていることから目を背けている限り、その掌からいつも珠は滑り落ちていく。
かえってストレスを溜める糖質制限なんてしなくても、
自分を傷つけるように運動なんてしなくても、
取得した途端に使いたくなくなる資格なんて取らなくても、
人を人とも思わない交流会に出なくても、
自撮りもブランディングもしなくても、
自分をすり減らしてまで相手に尽くさなくても、
大丈夫なんだ、自分が自分に惚れてさえいれば。
その惚気に、周りは心震わされるだけなんだ。
最も恐ろしい自分の闇に、手を伸ばし続けることができれば。
その覚悟に、人はただ惹き付けられるだけなんだ。
どうしたって、そこには波なり渦なりうねりができる。
自分にどれだけ惚れているか。
その天下無双の才能を、どこまで信じているか。
それに尽きる。
やり方がどうだとか、
売り方がどうだとか、
相互フォローがどうだとか、
ワードプレスがどうだとか、
セールスライティングがどうだとか、
フロントエンドとバックエンドがどうだとか、
エンドスウィープがどうだとか、
スイープトウショウがどうだとか、
ナリタブライアンがどうだとか、
全然関係ない。
自分をどこまで信じているか。
もうそこだけが問われているだけだ。
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賛否両論。
この言葉が、私はずっと嫌いだった。
「あの人のやり方は賛否両論だよ」という言葉を聞くと、残念なお店のイメージを抱いてしまった。
けれど、賛否両論という語は、マイナスだけの意味合いではないはずだ。
称賛も否定もあるという、両方が存在する状態を表しているだけだ。
「賛」も「否」もあるのに、どうして私は嫌いなのだろう?
最近それについて考えていたのだが、結局そこに私の最も怖れるものが隠れていた。
私の最も怖れているのは、「否定されること」だった。
それは、自分の大切な誰かから「称賛されること」を受け取れないほど、恐ろしいものだった。
そしてそれは裏を返すと、自分が誰かを「否定する」ことへの怖れに他ならなない。
すなわち、「嫌われる勇気」と同義の、「嫌う勇気」。
ずっと人生の中で、流されて「YES」を言ってきた。
人生の岐路を迎えて、ようやく意思を持って「NO」を言うことをせざるを得なくなった。
「NO」を言うことは、極度に困難を伴う。
いつも「NO」を言おうとするたび、嫌われる怖れ、否定する怖れ、否定される怖れ、「NO」を言える自信のなさ・・・そんなことがないまぜになって言えなかった。
けれど、「NO」を言えない男の「YES」に価値はない。
仮面を被って、取り繕って、いい顔して無傷のままでいようとして、うまいことやろうとしているのは、実は一番横着なやり方とも言えるんじゃないか。
いっぱい嫌われ、いっぱい傷つき、いっぱい迷惑こうむって、
その逆に、
いっぱい嫌って、いっぱい傷つけて、いっぱい迷惑をかけるんだ。
どうやったって、自分の声に丁寧に生きようとしたら、そんな場面は出てくる。
あえて積極的にする必要はないけれど、「そうしても、いい」という許可は、何よりも尊い。
なぜなら、絶対に裏切らない「自分」という味方を得ているから、大丈夫だから。
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菩提心を宿すように、もっともっと、自分自身を信じよう。
自分の心を、肉体を、才能を、先祖を、カルマを、業を、ご縁を、資質を、信じよう。
光も闇も含めて、自分の歩いてきた道を信じて、
その道で出会った大切な人たちを、
そしてこれから出会う貴重な人たちを、
信じよう。
もっと、もっと。
どんな自分の小さな声でも、
どんな自分の汚い欲望でも、
どんな自分の悲痛な叫びでも、
どんな自分の聞きたくない金切り声でも、
耳を澄ませられるくらいに丁寧になれたら、
世界はおもしろいくらい反転するから。
自分への信頼は、目に映る世界への信頼だ。
この世における最大のパラドックスは、
もっとも愛されたいと願う他人ではなくて、
もっとも醜く愛し難いように見える自分の本音を、
大丈夫だよと信頼して大切にした分だけ、
なぜか世界から愛されるということだ。
もっともっと、自分に惚れよう。
自分を信頼し、愛して、自分に惚れよう。
その信仰は、いつしか希望の灯となり、
周りの大切な人を照らす。
その灯を、消すんじゃない。
嫌われる怖れも自己否定も罪悪感も、
何もかも自分の頭の中にしかない。
曇りなき眼で、その世界を見てみれば、
いつだって自分が愛されていることに気づく。
もうここにいない誰かに遠慮するんじゃない。
自分を信じて惚気られるのは、
どこまでも自分しかいないのだから。
それこそが、
毎日更新するよりも、大切なことだ。