大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

寂しがり屋、という才能。

弱みや短所と思っていることこそがその人の才能の源泉。

それと強みが重ねあわさったときに、その人特有の才能が生まれる。

先日仲間と会話をしていて、あらためてそう思わされたので、それについて綴ってみたい。

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人はいつでも幻想の中に生きる。

幻想とは、思い込み、観念、ビリーフなどと言い換えられる。

社会常識やマナーから、あるいは言葉、社会制度、通貨といったものも、みなが見ている幻想と言えるし、「歩く」という行為一つにしても、「歩くことができる」という思い込みがあればこそ、あの二本の足でバランスを取って進むという難しい行為を自然に行うことができる。

そのようなポジティブなものもあれば、「私は誰にも愛されない」「男性は信用できない」「お金持ちは汚い」というネガティブな影響を及ぼす思い込みもある。

私自身の強烈な思い込みは、やはり両親との突然の別離で抱いてしまった、「親しい人はいつか突然、わたしの元からいなくなる」という思い込み、幻想だ。

だから、ある一定の距離感(仕事の上での同僚や、面識のある程度の友人など)の人間関係は大丈夫なのだが、その一定の距離を越えた親密な距離感(家族やパートナー、すごく信頼できる友人)の人間関係が、非常に苦手だ。

自分からシャッターを降ろして誰も立ち入らせないようにするか、そっとあとずさりして距離を置くか、いずれかでその親密感を怖れてきた。

そのスペースにたいせつな人を入れてしまったら、またあの突然の喪失を味わうかもしれない。

あんなに辛い経験は、もう絶対にしたくない。

絶対に失わないためには、初めから得なければいい。

そうすれば、失うことはないから。

確かに得なければ失うことはないが、同時に人とのつながりを得られることもない。

寂しさと人恋しさへの渇きは、まるで脱水症状を起こすように、自分の周りで人間関係の問題を引き起こしてきた。

寂しさと親密感への怖れこそ、私の人生の中で最も強力で根源的な幻想、思い込みのように思う。

それは、両親との突然の別離から生まれた思い込みのようにも見えるが、実はそのずっと前から抱えており、両親のことで健在化しただけのようにおも思う。

まるで、この思い込みを人生の課題として選び取って、生まれてきたようにも思える。

いまでこそ、こうした思い込みを言語化して説明できるが、それをするのに15年以上の歳月と、奇跡のような人の縁とその助けを必要とした。

この「親しい人は、突然わたしのもとからいつか突然いなくなる」という思い込みは、いまでもまだ強く、「そうとも限らないよな」と自分に言い聞かせながらの日々である。

胸のうちに埋められない寂しさを、ずっと抱えている。

それなのに、他人とうまく親しい関係を築けない。

「ハリネズミのジレンマ」の逆バージョンのような、困った性質である。

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抱えきれない寂しさがいっぱいな分、満たされることも怖い。

自分がとても信頼していて、たいせつな人たちと会う時間が、私はとても怖い。

人は不幸になるよりも、幸せになるほうが怖いのだ。

そうした気の置けないたいせつな人と過ごす時間に勇気を出して飛び込むと、その時間はほんとうに楽しい。

ずっと抱えてきて、ダダ洩れになっていた私の寂しさも、少しおとなしくなるようだ。

けれども、その分、その時間が終わると反動が来る。

ロス、喪失感、寂寥感、というやつだ。

寂しさはかえって増大し、胸が張り裂けそうになる。

あれ、また一人だ、寂しいな・・・と。

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ところが、先日その友人とそのロス、喪失感に話していたところ、

「ロスになんかならないよ」

とあっけらかんと言っていて、私はまるで異星人を見たように驚いた。

そして彼女が次に紡いだ言葉に、なおさら驚いた。

「だって、また会えるもん」

あぁ、そうなのだ。

思い込み、設定、幻想が、私とは違うのだ。

一時別れても、またすぐに会えることを微塵も疑っていない。

私とは、前提が違い過ぎる。

それを聞いて、「ああ、私はなんてどうしようもない幻想に、いつまでも捉われているんだろう」と自分を責めたりもした。

わたしは弱い人間だなぁ、と。

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人は成長していく過程で、特に思春期を経ると、他人と比較してさまざまな劣等コンプレックスを抱える。

短所、欠点というやつだ。

身体的な特徴もそうだし、性格的なものや、家族に関することだったり。

多くの人はそれを隠そう、あるいは克服しようとする。

ところが、「短所」と思っていることにエネルギーを割いても、なかなかテンションは上がらない。

そうすると次に人は「長所」にフォーカスすることを学ぶ。

短所を補うよりも、長所を伸ばす方が楽しく、成果も上がりやすいからだ。

それでも、この「長所」を伸ばしていくことにも限界がやってくることがある。

それでは解決できない問題が、明後日の方向からやってくるからだ。

真正面を見据えた状態で飛んでくるパンチでは大きな怪我にはならないが、突然視界の外から飛んでくるボールがぶつかると、簡単にダウンしてしまうように。

そうしたときに、価値観の転換が起こる。

いままでのやり方では解決できないからだ。

ずっと短所や欠点だと思っていたことに、目を向けだす段階がやってくる。

弱みを強める段階だ。

神経質な性質の人は、とことんまでこだわってしまうように、

部下の教育ができないのなら、とことん面倒を見ないようにして周りに晒してしまうように、

寂しがり屋なら、とことんメンヘラまで寂しがってしまうように。

短所や弱みをとことんまで突き詰めて、晒し出すと、その中から自分の資質が現れるようになってくる。

こだわり尽した人は、いつしかアーティストと呼ばれるようになったり、

面倒が見れない人は、不思議とみんなが助けてくれるリーダーシップの才能が現れたり、

寂しがり屋の人は、寂しい心の内を表現することで共感を得られたりする。

そうして現れた資質と、長所をかけあわせたものこそ、その人の才能と呼ばれるものなのだろう。

そこには、長所も短所もない。

その人の個性、オリジナリティとでも呼ぶべきものがあるだけなのだ。

ロスになるくらい寂しがり屋で、「たいせつな人は、いつか私のもとから突然いなくなる」という思い込みは、

そのおかげで、こうして毎日毎日、飽きもせず寂しさだったり、愛だったり、つながりだったりについて書き続けられている。

そこに長所も短所もない。

ただ、わたしという存在は、そういうものだ、というだけのことのように思う。

それを自分が欠点と感じたり、幻想と思ったり、短所と見たり、才能と捉えたりする。

まして周りの他人がどう思っているかなど、見る人によって、見るタイミングによって、全く変わってくるのだろう。

そこに短所も長所もなく、才能とはそういうものなのだろう。

そんなことを、ロスにならない友人と話していて思った。

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子どもはどこを見たって、才能の塊だ。

同じように、自分を、そしてたいせつな人たちを見ていたいな、と思う。