立春も過ぎて1週間が経つというのに、今週はこの冬最大の冷え込みだそうだ。
今朝も玄関の扉を開けたときの冷気が、真冬の耳を刺す寒さの冷たさだった。
立春の前に少し暖かい日があったのが、まるで嘘のようだ。
その「寒さ」というのも、私たちのなにがしかの記憶との比較にしか過ぎない。
麗らかな春の陽気を知っていればこそ「今日はものすごく寒い」と言うのだろうし、心地のよい秋の風を覚えているからこそ「今日はうだるくらい暑い」と感じるのだろう。
けれど、もしも「今日この日」しか存在しなければ、身を切るような寒さも、うだるような暑さも、そこにはないのかもしれない。
ただ、身を切るものがそこにあるだけ。
ただ、汗の吹き出る気温があるだけ。
そこで「ただそこにある世界」を眺める視線こそ、繊細で本質的な視線のように思える。
「神は細部に宿る」とはよく言うが、まさにその通りなのだ。
その神を見けたとき、世界は変わる。
人についても同じだ。
役割、年齢、肩書、職業、性別、そして名前・・・目に見えるそうした記号を取り外したとき、目の前に立つ人はどんなふうに見えるのだろうか。
それはとりもなおさず、制約をすべて取り払ったときに、自分自身の本質はどう見えるか?、ということに他ならないのだが。
「ただそこにある世界」「ただそこに立つ人」「何者でもない自分」・・・そうしたものを見つめる視点を、「繊細さ」と呼んでみる。
「繊細さ」は、エネルギーであり、芸術性であり、中心である。
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たとえばヴァイオリンやチェロなどといった弦楽器の音色が表情豊かなのは、音程を自由に表現できることが一因といえる。
それは初心者の演奏が心もとなく聴こえる要因ともいえるのだが、表現力豊かな演奏者は実にいろんな音色を紡ぎ出す。
五本の線が引かれた楽譜の上には、便宜上1オクターブの間に7つの音があり、その各音は♯や♭のように、それぞれ半音階上げたり下げたりする記号がある。
けれども、豊かな演奏を聴いていると、そんなことは忘れてしまうようだ。
優れた演奏者が、「ここのC♯、ちょっと低めでいいんだよね」と言っているのを、私は何度も聞いたことがある。
CとDの間にある無数の音階が存在していて、彼ら・彼女らはその中で自分の表現したいレンジの幅の音程を狙って、音を紡いでいる。
そのレンジの幅の狭さこそが、プロがプロたる所以なのだと思う。
半音階よりも、ずっとずっと小さな幅のそれ。
そのほんの小さな違いが、演奏表現の全ての違いを生む。
「繊細さ」にこそ、芸術性は宿る。
そして芸術性とは、指向性と言い換えられる。
皆が見過ごして通り過ぎていたところに、「見てください、ここにこんな美しいものがありますよ」ということを指し示すのが、芸術の一つの役割である。
それは、決して無から有を生み出すのではない。
0を1にするのではなく、いまあるものを「繊細に」扱っているだけのことだ。
0と1の間を埋める無数の小数点以下の「繊細な」ものたちに、スポットライトを向けることとも言える。
だからなのだろうか、私の周りの表現力の優れた多くの演奏者ほど、周りの誰しもがガラクタだと思ってとっくの昔に捨てたものを、後生大事に抱えていた。
他の人からしたらゴミのように荒っぽく扱うものを、「繊細に」扱えること、それは一つの才能である。
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世界を「繊細に」扱うとは、自分の感情を「繊細に」扱うことと同じことである。
感情を抑え込んでいると、必ず現実は停滞する。
毎日毎日、頭の中をぐるぐるグルグルと同じところを行ったり来たりして、何も動けなかったりする。
ところが逆に、感情を早巻きにするほど、人生は動き出す。
大きな怒りや悲しみ、悔しさといった感情を感じ尽くすと、重りが取れたように心が軽くなる。
心が軽くなると、身体も軽くなり、行動しやすくなる。
感情を感じ尽すと、人生が動き出す所以である。
そして感情は感じ尽すと、地層を掘っていくように次の感情が出てくる。
怒りや悲しみといった「荒っぽい」感情を感じの下には、大きな喜び、楽しさといった感情があり、その下には深い孤独感があったり、そのもっと下にはあたたかな、安らぎのような安心感が・・・というように続いていく。
それを辿っていくと、どんどんと「繊細な」、言語化できないような感情が眠っている。
感情を感じ尽くすとは、他人に向かって自分の感情をぶつけることでも、自分の感情を他人に無理矢理理解させることでもない。
ただ、自分の感じている感情に気づくこと。
それに尽きる。
ずっと水の中を泳ぐ魚は、その水が井戸の水なのか、池の水なのか、大海の水なのか、わからない。
井戸を、庭を、砂浜を見てこそ、それが何の水なのかが理解できる。
目に映る不快な出来事や、怒りをおぼえるような人は、いま自分が泳いでいる水がなんなのかを教えてくれるサインともいえる。
潜るべきは、相手や外の世界という外界ではなく、自分自身という大海。
たいせつなことは、「荒っぽい」表象の感情の奥底に眠る、「繊細な」感情にこそ宿る。
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アナログの時計、あるいは自動車の車輪。
ぐるぐると絶え間なく動いているように見えて、実は中心点に近づくほどにそれはほとんど動いていない。
中心点の近くでは、それはほとんど動きを止めているように見える。
けれども、その中心がほんの少し動いただけで外側は大きく動いている。
自分の中心から離れているほど、大きな「荒っぽい」問題が起きやすいことの比喩とも言える。
中心から離れていると、それを気付かせるために何度も似たよう問題や出来事が起こるものだ。
けれども、どれだけ表層で「荒っぽい」出来事があっても、その人の中心や本質においてはほとんど何も変わっていないほど小さなことなのかもしれない。
あるいはその逆に、その中心の「繊細な」部分に目を向け動かすことは、大きく大きく現実の車輪を回すことができるのかもしれない。
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「繊細さ」は、エネルギーであり、芸術性であり、中心である。
それは、回っている時計や車輪の中心点だ。
いまこの瞬間を、この目の前の人を、どこまで「繊細に」見ることができるのか。
それによりエネルギーの質も芸術性の高さも純粋さも、変わってくる。
その鍵を握っているのは、やはり自分の感情のように思うのだ。