大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

ただ、そこで笑っていてくれれば、それでいい。

おとつい、昨日のエントリーの続きです。

親の心が、プロジェクター。その内面を、子どもという真っ白なスクリーンに映し出す。 - 大嵜 直人のブログ

絶対にダメなことをしてしまうこともある。ときにあなたも、そしてわたしも。 - 大嵜 直人のブログ

頂いたご質問の二つめ、

「どうやって自分を癒してきたのですか?女性の側からすると、パートナーの持つ無力感・無価値観・罪悪感とどう向き合って見守ってあげたらいいのだろう?」

について、回答させて頂きたいと思います。

昨日は「ただ、笑っていてくれれば、それでいい」と書きましたが、なぜ私がそう思うのか?という背景や前提を含めて、少しくわしく書いてみたいと思います。

私がそう思うに至るまでに、たいせつにしていることは二つあって、

「原因と結果は切り離した方がいい」

「人は他人を変えられない」

という二つの前提があります。

順に書いていきますね。

前提として、私は癒されているかどうか?といえば、決してそうではないように思います。

まだまだ両親との突然の別離からの傷にまみれてますし、その傷が疼いて見捨てられる怖れに怯えるときも多々ありますし、それによってほんとうは誰よりもつながりを求めて寂しいはずなのに、他人との一定以上に親密になることに強烈な怖れを抱いています。

とはいえ、そうしたことを自分で自覚できるようになってきたということは、癒しが進んでいると見ることもできます。

以前は自分の持っているそうした傷や、痛みを深く封印してしまい、自覚することすらできなかったですから。

幸運にも私がそのような過程をたどることができたのは、いくつも要因を挙げることはできます。

得難いたい人との出会いがあったり、
そこから心理学の世界を学んだり、
無条件で愛を与えてくれる子どもたちがいたり、
ときにわがままを通して新しい世界に飛び込んでみたり、
そこで出会った人の温かさに触れたり・・・

振り返ってみれば、いくつでも「癒された原因」を挙げることはできます。

けれども、それは「振り返ってみて」の話であって、「それがあったから必ず癒される」というものではないように思うのです。

「結果」の側から見ると、「原因」は明らかに見えるけれど、その「原因」があったから、必ずその「結果」になるとは限らない、ということです。

たとえば奈良の東大寺の大仏様は、疫病や飢饉、洪水や地震といった天災などが頻発して社会が不安になっていた中で、仏さまに祈りを捧げるために建立されたと歴史の上では言われます。

けれども、社会的な不安が頻発すると、必ず大仏様が建立されるわけではない。

必ずしも、「原因」と「結果」は結びついていないのかもしれません。

人は、人を変えることはできません。

誰かが変わったように見えるとき、変化したように見えるとき。

それは、そのきっかけになった出来事や出会った人がどんなものであれ、それはあくまで「きっかけ」に過ぎないと思うのです。

どんな人でも、どんな状況でも、「自らの意思と力で変わった」のだと思います。

そして加えるなら、その変化するタイミングは、その人にとって必要なベストのタイミングで訪れる、とも思います。

人はどうしたって、他人をコントロールしたくなります。

関係性が近くなればなるほど、それは顕著になります。

ところが、他人から「あなたはこうした方がいい」「こういうふうに変わった方がいい」と言われるのがあまり気分のいいものではないように、自分が他人に対してそう言うことも、同じことだと思います。

(まったく同じ理由で、他人から「こうした方がいい」「こう変わった方がいい」と言われて、喜んで変わろうとしてしまうのは、少し落ち着いて考えた方がいいように思います。

そこで成功したりしたら、ずっとそのアドバイスを渇望するようになるし、自分の思うようにいかなかったら、その人を責めるようになって、誰かを責める罪悪感を抱える、というスパイラルに陥ってしまうから。

どんなに間違っていても、愚かでも、人生の選択は「自分で選び取る」ことに価値があるのですから。)

夏の終わりにクヌギの木に産みつけられたカブトムシの卵が、秋に幼虫に孵って、寒い冬を土の中で過ごし、春の終わりにサナギとなり、そして夏に成虫となって土の外へ出てくるように、

冬の終わりに植えた種が、春に芽吹いて、梅雨を経て葉を広げ、夏の陽射しを浴びて、秋にようやく実をつけるように、

人の成長と変化、そして癒しには、人それぞれの時間とタイミングがあります。

それを「早くサナギになれ」「早く収穫したい」というのは、少し世界と調和していないように思うのです。

もちろん、人間ですから、周りの人を変えようとしてしまうときもあります。

そんなときは、そんな自分の気持ちもしっかりと認めて受け入れて、その人が変わったときに、その変化を見過ごさないように見続けるようにしたいな、と思います。

「原因」と「結果」を考えるのは、あまり意味がない。

そして、人は人を変えられない。

その二つを前提とするなら、無価値観や無力感、罪悪感の強いパートナーのために女性ができることは、自明のように私は思います。

(私自身が無価値観や無力感、罪悪感が強い傷まみれの男性なので、説得力があるはずです笑)

昨日お書きした通りです。

ただ、そこで笑っていてくれれば、それでいい。

季節がくれば咲く花のように、ただそこで咲いていてくれれば、それでいいのです。

女性は傷ついたときに、誰かと一緒にいたがりますが、

男性は同じ状況で、一人になりたがります。

それは、女性から見ると自棄になっていたり、自虐的に見えたり、自己破壊のように見えたりするかもしれませんが、女性が辛い話や愚痴を聞いてもらう時間と同じだけ、男性は一人の時間を必要とします。

(一般論としてであって、もちろん一人の時間が必要な女性も、誰かに話す時間が必要な男性もいます)

そこで一人になっている男性に、わざわざ向き合ったり、見守ったり、何かを与えたりしようとしなくてもいいと、私は思います。

だって、女性がたいせつな友達や友人とお話ししている時間に、「それよりも一人でいる時間が必要だ」と言われても、まったく同意できないと思いますから・・・

ただ男性としては、もの思いにふけって、一人の時間を十分に過ごして、ふと日常にもどったときに、そこに咲いている花であってさえすれば、いいと思うのですが、いかがでしょうか。

その人が望むときにしか、人は変わらないのだとしたら、「ためにする何か」はあまり意味がないはずです。

パートナー関係をよくするためには「何か」をやってみること、

傷ついた彼を癒すために、何が必要か思いをめぐらすこと、

相手の愛情にずっと甘えてきて、それに気づかなかった、

そのために・・・

もちろん、それをすること自体は、とても素晴らしいことだと思います。

だって、それは全部、その人のことを想って、その人への「愛」からの行動だから。

もっと私がいままで向き合っていたら、

もっと私が癒してあげられていたら、

もっと私があのときこうしてあげられていたら、

もっと私が・・・

そんなこと、思わないでくださいね。

そんなことを思うのは、世界で一人しかいないですから。

そんなことを思ってしまうのは、愛が深すぎるあなただから。

きっと、周りの誰が見ても、あなたくらいに愛を与えている人はいないはずです。

そして、それはあなたに最も近しい人が、一番よく分かっているんじゃないかと思うのです。

無償の愛も、依存的な愛も、出し惜しみした愛も、めんどくさい愛も、エゴの混じった愛も、怖れを抱えながらの愛も、ぜーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーんぶひっくるめて、尊い愛です。

そこに正誤善悪も、優劣も何もありません。

ただ、自分の与えてきた愛の深さ、大きさ、広さ、温かさ、優しさ、美しさ、健気さ、まっすぐさ、豊かさ、完全さ、尊さを、もう一度振り返ってみて、受け入れるだけでいいんじゃないかな、と思うんです。

すべての女性には、どんな傷も怖れも無力感も無価値観も罪悪感も、愛に変えていける力がもともと備わっている、私はそう思います。

いま、もうすでに完璧なのですから、さらに完璧を求めても得られないのは当たり前です。

等身大の自分の愛。

その偉大さを、余すことなく受け入れていけばいい。

だから、

 ただ、そこで笑っていてくれれば、それでいい。

と昨日お書きしました。

それが「もしかしたら、結果的には」男性にとってのこの上ない癒しとなるのかもしれませんね。

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まだ寒い日が続きますが、もう桜の蕾も膨らみ始めていました。

蕾は膨らみ、花は咲き、そして散り、若葉を繁らせ、そして葉も散っていきます。

散った葉は、足元の土に還り、そして次の春の花へと。

変わっているように見えて、変わっていないのかもしれません。

変わっていないように見えて、変わっているのかもしれません。

桜も人も、同じようなものなのかもしれません。

ご質問いただいた内容に対して、お答えになっているかどうか自信がありませんが、いまの私の考えをお伝えさせて頂きました。

お答えする中で、私の中で整理したり消化したりすることができました。

またお問い合わせ、ご質問をいただいた際には、お答えしていきたいと思います。

ご質問いただきまして、ありがとうございました。