虹の足元を見た日の翌日。
旅行疲れなのか、なにがしか感情が動いたのか、強い眠気を覚える。
その眠い頭を動かしながら、日常に戻っていたのだが、なぜか「夢」という言葉が、頭に残っていた。
「夢」とは何だろう。
遠くにあるもの。
けれど、叶えるもの。
とびきりのごちそう。
たいせつなもの。
人の生きる理由。
結局は、叶うもの。
あの大きな虹の足元には、そのどれもがふさわしいように思えた。
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なぜだか分からないが、旅をすると、ハートが開く。
旅先では素直になれたり、隠していた本音に気づいたり、ふっと過去の自分を見つめる時間があったり、日常にはない心地よさや、あるいは悲しさだったりを感じたりする。
これは、私だけだろうか。
そうではないような気がする。
「旅は最高の自己投資」という話があるが、投資というリターンがあるわけではなくても、自分の心が開くというのは、何ものにも替え難い経験だ。
日常の中で埋もれた自分の姿に気づく時間が、旅に出ると必ず、ある。
今回の旅もそうだった。
虹の足元を見た翌日、なぜだか分からないが無性に涙が流れた。
旅に出れた、という嬉しい涙ではない。
悲しい感情にあふれた涙だった。
寂しさと孤独感を抱え、その裏返しのつながりと居場所を求める私にとって、やはり近しい家族、というのはキラーワードである。
あの三十数年前に父と母と訪れた海岸の白さと青さを思い出していた。
もう還らぬ、あの美しい日々。
息子と娘も、いつかこの旅で訪れた海岸の、小雨の降る青い風景を郷愁をもって思い出すときが来るのだろうか。
そのとき、私はどうしているのだろう。
そんな考えてもせんないことが頭をめぐり、涙が流れる。
この悲しみは、失うこと、失われることへの怖れなのだろうか。
ほんとうに、悲しみなのだろうか。
たとえば、
人はほんとうに嬉しいとき、飛びあがって嬉しいと喜べるのだろうか。
心の底から楽しいとき、満面の笑みを浮かべてありがとう、と言えるのだろうか。
そのような嬉しさもあるだろうし、楽しさもあるのかもしれない。
けれど、悲しみの際にある嬉しさも、この世には存在するような気がする。
うまく表現できないのだが。
美しさ、というものが、醜さと残酷さの際にあるように。
悲しみの際にある嬉しさや喜びも、またあるのように思う。
頭で考えれば、楽しい喜びなのかもしれないのだけれど、なぜか悲しくて仕方がない。
もう少しこの感情に向き合ったら、うまく表現できるのだろうか。
いや、「うまく」表現はしなくてもいいのかもしれない。
ただ、そう感じただけ。
それを、認めるだけ。
それを感じられて認められた分だけ、世界は豊かになる。
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旅の中で、恐竜ブームが再燃している息子のために、ある博物館を訪れた。
その中の展示が、なぜか心に残った。
遠い遠い彼方の昔。
生命は海で生まれたと聞く。
アメーバにすらなる前の、有機物の「もや」のようなその生命は、いったい何を思っていたのだろう。
いつか、自分の意思で自分の身体を動かすことを夢見ていたのだろうか。
それとも、広い海の外に出たいと思ったのだろうか。
途方もなく長い時間は、やがてその生命の形を変え、そして母なる海から未知の地上へと踏み出していく。
長い時間をかけて地上に出た植物たちは、どんな夢を見ていたのだろうか。
やがて、さらにまた途方もなく長い時間をかけて、たくさんの種が生まれ、そして進化の道をたどっていく。
海水の濃淡のようだった「もや」は、長い年月の中で大きな大きな生命へと変わっていった。
彼らは「もや」だったことを覚えていたのだろうか。
自分の手足で動くことを、夢見ていたことを思い出すことがあったのだろうか。
そして、彼らはどんな夢を見ていたのだろうか。
おなかいっぱいに、食糧を頬張る夢を見ていたのだろうか。
産まれた自分の卵たちが孵る夢を見ていたのだろうか。
人間の祖先の小さな生きものたちは、そのときどんな夢を見ていたのだろう。
彼らは自分が気の遠くなるほどの昔に、かつて「もや」のような生命だったことを思い出すのだろうか。
「もや」のような生命が、いつか見た夢。
ひょっとしたら、私自身もそうなのかもしれない。
いや、きっとそうなんだろう。
いつか、見た夢。
それは嬉しくも、また悲しい。