世のものごとには「流れ」と呼ばれるものがある。
社会の大きなそれは「流行」や「トレンド」と呼ばれるものになるだろうし、あるコミュニティの中でも不思議と同じテーマや話題が繰り返されることがある。
勝負事やギャンブルなどといったことにおいても、「流れ」を大切にするプレイヤーは多い。
セオリーなら送りバントだけれども、ノッている打者なので強攻してみたり、午前中のレースで乗れている騎手に、午後の勝負レースを託してみたり。
個人においては、同じフレーズが繰り返し目に入ったり、街角の雑踏の中でその言葉だけを拾ったり、あるいは同じテーマが人間関係で繰り返されたりする。
それがどんな意味を持つのか、それは分からない。
けれども、「ああ、自分はいまそんな『流れ』の中にいるんだ」と考えてみることは、なかなか楽しい。
これも、私のストレングスファインダーの資質第1位の「運命思考」のなせる業なのかもしれない。
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最近の私においては、「なくす、別れる、失う」というテーマが繰り返し現れているように感じる。
訪れた博物館のグッズショップが、ちょうど当日が閉店となる日だったりする。
続いて起こったのは、仕事で少し遅くなって帰宅した日のことだった。
私はダイニングテーブルの上に置き手紙を見つけた。
筆跡からすると、すでに寝入っている息子の書いた手紙らしい。
コートを脱ぎながら、その手紙を解読してみると、どうも息子の最も大事にしている友達の「トリケラトプスのぬいぐるみ」がいなくなってしまった、とのこと。
そのいなくなった「トリケラトプスのぬいぐるみ」は、例によって私が「好きなことをしよう、そもそも好きなことってなんだっけ?」と探していた時期に、息子と外出するたびに買っていた恐竜のぬいぐるみだった。
息子の一番のお気に入りの友達の一人だった。
そのぬいぐるみをファンヒーターの近くに置いていて、背中の毛が少し溶けてしまった箇所まで思い浮かべることができた。
いや、先週末までは見たぞ。
確か、自転車のカゴに入れて、公園に連れて行ったりしてたぞ・・・
その後、どうしたっけか・・・?
走馬灯のようにそのぬいぐるみの姿を思い浮かべながら、まあまあ大きなぬいぐるみのトリケラトプスが、どこへ行ってしまったのだろうか、と考えていた。
手紙の最後に書かれていた、
かなしいです どうにかしてください
という言葉に、胸が
ずきん
と痛んだ。
ああ、またこの痛みだ。何かを失くす、痛み。
あの気に入っていたぬいぐるみと会えないとなったら、息子はどんなに悲しむだろうか。
その悲しみを考えると、胸が痛む。
何かをなくす、誰かと別れる、何かを失う。
私は特別な痛みを感じる、それらの出来事。
あのぬいぐるみはどこへ行ってしまったのだろうか。
確かに近所の公園に息子と一緒に連れて行ったところまでは覚えているが、そこに忘れてきてしまったのだろうか。
それとも、何かの間違いでゴミと一緒に捨ててしまったのだろうか。
怖れと痛みは、イヤな想像しか呼ばない。
無性に不安になって、私は深夜から家探しを始める。
そういえば、息子は娘と一緒に「きょうりゅうかくれんぼ」をしていたな・・・
どこかに隠して、そのまま忘れてしまっているのではないだろうか。
押し入れ、靴箱、洗面所のストック、ソファーの後ろ、カーテンの影・・・
眠っている家族を起こさないように、こそこそと引き出しや扉を開けては閉め、私は捜索したが、そのぬいぐるみは見つからなかった。
きっと、息子も人生の中で、何かが失われる痛みを感じる場面があるのだろう。
別れた恋人、
集めていたのにいつの間にかなくなった玩具、
失われた風景、
今生の別れ・・・
それらもまた恩恵を与えてくれるとはいえ、それがいまでないことを願ってしまうのは、愛情も癒着も執着も過保護も、ごった煮になっているのだろう。
痛みもまた恩恵と成長を与えてくれる。
けれども、今日でなくてもいいではないか。
あらゆる引き出しや戸棚を開けて落胆し肩を落としたあと、私はもう一度リビングを探し始めた。
もし見つからなかったら、あの公園に探しに行ってみようか。
いや、もしゴミとして出していたら、どこの処理場に運ばれるのだろう。
すぐに焼却処分されるのだろうか・・・
そんなよしなしごとを考えながら、私はリビングをウロウロとする。
散らばっていたおもちゃを片付けるために、息子と娘のおもちゃ箱を棚から取ったときだった。
娘のおもちゃ箱の底に、あのオレンジ色が目に入った。
いた。
私はほっと胸をなでおろし、その場に座り込む。
あのファンヒーターで焦げた背中の傷も、そのままだった。
なぜおもちゃ箱の奥にいたのかはよく分からないが、何はともあれ、見つかってよかった。
その日一番の仕事を終えた私は、ゆっくりと湯に浸かって、リビングのテーブルに彼を置いて寝た。
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翌朝、私が想像したような感動の対面もなく、「ふーん」という反応の息子にツンデレの気を覚えながら、見つかってよかったと私は改めて思った。
なくなる怖れと痛み。
私は恐らく生きていくうえで、花粉症のような持病としてそれを抱えていくのだろう。
怖いものは、怖い。
痛みを感じることは、仕方がない。
それに殉じようと思う。
けれども、息子は置き手紙で一つのヒントを教えてくれた。
かなしいです どうにかしてください
正直に、その言葉を伝えることだ。
自分が悲しいということを、認めること。
そして、それを表現すること。
さらに、その癒しを周りに頼ること。
小さな先生は、いつも大切なことを教えてくれる。
いつしか人は、成長していく中で、
感情が揺れることを、
感情的になっていることを表現することを、
自分以外の力を借りることを、
忌み嫌うようになる。
それは、
とても辛い感情の経験をしたり、
人前で怒ったり泣いたりすることはダメだと教えられたり、
助けてほしいときに誰も助けてくれなかったり、
そうした悲しく痛い経験から生まれる。
そのようにして「もうこんな悲しくて痛い経験は絶対にしたくない」と、感情を抑え、自分の力で何でもこなそうとすることを「自立」するという。
それは成長の一つの段階なのだが、その螺旋を登り続ける限り「なくなる恐れと痛み」に終わりはない。
頑張れば頑張るほど、なくなる怖れは強くなり、心の中に虚しさはつのり、寂しさと孤独感は心を蝕んでいく。
どれだけ螺旋階段を登っても、デッドゾーン、燃え尽き症候群と呼ばれるモノクロの荒涼とした世界が広がるだけだ。
その螺旋階段を、降りること。
かなしいです と認めること。
それを正直に表現すること。
どうにかしてください と助けを求めること。
それは、螺旋階段を登るよりも、ものすごい勇気が要る。
階段を降りた先に、何もなかったらどうしよう?
せっかくいままで頑張ってきたのに、それがムダになってしまう。
そんな風に思うかもしれない。
けれども、それを越えて勇気を出した先には、違った世界が広がっているのかもしれない。
意外と、世界は優しいのかもしれない。
あの息子の大親友の、トリケラトプスのぬいぐるみの顔のように。
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書きながら思ったのだが、どうやら「なくなる怖れと痛み」という、ここのところ続いている私のテーマは、裏返してみると「自立を手放す」ということなのかもしれない。
ずいぶんと頑張らなくなったように思うが、まだまだ自立時代の癖が出ているのだろうか。
「自立」の先には、「孤立」しかない。
そこでは「なくなる怖れと痛み」が肥大化する。
もっと寂しければ寂しいと感じて、それを表現して、周りに頼っていいのかもしれない。
あの息子の素直な手紙のように。
かなしいです どうにかしてください
そう言うことができるのは、強さなんじゃないだろうか。