始まりと終わりは、必ず同じ場所。
海に流れ着いた水が、
あたためられて蒸発して雲となり、
それが集まって雨雲となって雨を降らせ、
その雨水は山々の土に浸み込んでいき、
その水はいつしか流れ出て小川となり、
そうした小川がいくつも集まって大河となり、
やがて海へと還るように。
始まりと終わりは、同じ場所に還ってくる。
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水の模様がそうであるように、人の行動も同じようだ。
始まりの場所に、何があったのか。
動機は、何なのか。
それが、終わりの場所、もしくは結果で待っているものを決める。
たとえば。
寂しさ、という人を狂わせる厄介な感情がある。
以前の私は、たいせつな人を喪失して心にぽっかりと空いた穴から染み出す寂しさを埋めることが、行動の動機であることが多かった。
ワーカホリックだったのも、寂しさから仕事をしていたのだろうし、
寂しさからお酒に酔っていたように思う。
これだけ仕事を頑張れば、みんなに認めてもらえる。
称賛や、賛辞、あるいはよい評価がもらえる。
そうしたら、この寂しさが埋まるかもしれない。
あるいは、お酒に酔っている間は、寂しさを忘れることができた。
飲み屋の新規開拓をするよりも、なじみの店に顔を出すことが多いのは、大将なりスタッフの方だったりの、知った顔を見て飲むことで、寂しさを紛らわせられると思っていたのだろう。
ところが、残念なことに、どれだけワーカホリックに仕事を頑張っても、寂しさとつながりへの飢餓感は満たされることはなく、逆に「もっと称賛されないといけない」と強い刺激を求めて、さらにハードワークに嵌ることになる。
寂しさから酒を飲んでも、一時はその寂しさを忘れられても、翌日の朝が辛い。
雪だるまのように増した寂しさは、二日酔いの後悔と合わさって陰鬱な気分を呼ぶ。
寂しさから始めた行動は、寂しさを生むだけ。
当時の私は、悲しいかな、それに気づいていなかったように思う。
決して、寂しさから仕事を頑張ることが悪いとか、酒を飲むことが悪いとか、そういう類の話ではない。
ただ、そうせざるを得なかっただけのことだ。
それに良いも悪いもなく、「そうしなければ、当時の私はやっていけなかった」と認めてあげた方が、自分に、他人に、世界に優しくなれるのだろう。
それに気づくことができたのは、素晴らしことだとは思う。
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始まりと終わりが同じ場所であるならば。
寂しさからではなくて、喜びから行動をしたら、どうなるだろう。
怖れからではなくて、愛から何かをしてみたら、どうなるだろう。
それをイメージしてみることは、一つの大切なことかもしれない。
愛からした行動の先には、必ず愛が見つかる。
途中で紆余曲折を経ようとも、必ず。
さりとて、人の世は完全なる白も黒もなくて、濃度の異なる灰色のグラデーションではある。
完全なる寂しさ、完全なる愛などないのかもしれなくて、それらが入り混じった状態が、人として自然なのだろう。
解脱するのは、今生を終えるときで十分なのだ。
だとしても、その行動が何を動機にしているのか、折に触れて立ち止まってみたいと思う。
いま、その相手に私は何を与えたいのか。
それは、なぜ与えたいのか。
どうして、与えたいのか。
答えは、必ず自分という深淵なる海の底に眠っている。