思い立って、花見をしながらお昼を食べることにした。
冷たい雨が降った土曜日の後の、朝から晴れ間の見える日曜日だった。
陽は差しているが、風は強い。
たたまご、シーチキン、ハム、ベーコン、きゅうり、トマト。
溶かしたバター、マヨネーズ、そしてサンドイッチ用のパン。
息子と娘と、ああだこうだ言いながらサンドイッチの形にしていく。
道すがら、ユキヤナギがその可憐な花を散らしていた。
春の冷たい風に吹かれて、吹雪のようだった。
先週あたりに咲いたと思ったのに、もう散る時期とは桜同様に潔い散り方をするものだ。
雲の多い空模様だったが、雲の間から時折晴れ間が覗く。
春陽の陽射しというのは、それを浴びるだけで幸福度が上がる気がする。
いつのまにか、以前に比べて緑も生い茂ってきた。
新緑、という言葉が頭に浮かぶ。
季節のめぐりは、ほんとうに一日一日と確実に進んでいく。
少し大きい近所の公園に着いた頃には、また厚い雲が空を覆っていた。
風が強く、少し肌寒い。
桜並木は、先客がぼちぼちいて、花見を堪能していた。
にぎやかな話し声、ときおり聞こえる笑い声が春の訪れを思わせる。
雪柳の白さと、桜のピンク色、晴れ間の見えた空の青さの対比が美しい。
いままで視界に入っていながら、あまり意識していなかった雪柳。
その名を知ってから、愛でる機会が増えたように思う。
名前を知る、とはかくも大きな力を持つものだ。
かの平安の昔には、ごく親しい相手にしか本名を明かさなかったという話も、頷ける気がすると雪柳を見ながら思う。
レジャーシートを敷いて、今日のお楽しみを広げる。
洒落っ気も何もない家庭用のタッパーだが、それもご愛嬌なのだろう。
息子がどうしても連れてくると言い張ったトリケラトプスも一緒に。
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考えてみれば、お弁当を用意しての花見なんて、ものすごく久しぶりのような気がする。
いつもは賑やかに花見を楽し人たちを横目にしていた。
ほんとうは羨ましいと思っていたのに。
無意識的に、そんなに楽しいことを自分がしてはいけないというような思い込みがあったのかもしれない。
自分にはそんなことは似つかわしくない、と勝手に拗ねていたのかもしれない。
そんな時間が、長かったような気がする。
けれど、羨ましかったら、やってみればいいのだ。
嫉妬を感じるということは、自分にもできるということをほんとうは分かっている、という明確な証拠なのだから。
もっと気軽に、この世界は楽しんでいい。
楽しい時間を過ごして、笑顔になって、幸せを感じるのに、何か条件や理由など要らないんだ。
童心。
こころの、おもむくままに。
ちょうど食べ終わる頃に、また晴れ間も出てきた。
持って来たグローブとボールで、息子とキャッチボールの練習をしながら、この世界を楽しむキーワードは「童心」かもしれないと思う。
童心。
桜の花の下では、皆がいい笑顔でいた。
童心に還れるから、花見をするのかもしれない。
そんなことを思った。
桜の淡いピンクには、やはり春陽の青い空がよく似合う。
今日も、世界は美しい。