大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

無力さ、叶わない夢、たどり着けない場所、白旗。

己が無力さを知ること、
叶わない夢があると知ること、
どうやってもたどり着けない場所があると知ること、
負けを認めて白旗を上げること。

それができるのは、
「弱さ」ではなくて、「強さ」だと思うのだ。

「辞職願と離婚届を懐に持つことは、会社と夫婦の関係を円滑にする」と言われる。

それは極端な例かもしれないし、その選択肢を実際に使うかどうかは別として、

その選択肢を持つ自由を自分に与えたとき、
あるいはその選択肢を持つ覚悟を持つことを許せたとき、
初めて他者との対等な関係性を築き、心を軽くする。

選択肢が見えないとき、人は執着する。

そしてそれを失う怖れと、強いストレスを感じる。

けれども、それがどんな選択であれ、ある選択にはカウンターパートとなる選択が存在する。

その選択肢を持たないと、心は疲弊し、閉塞感を覚える。

「もしAという提案が断られたらBを提案してみよう」というストーリーがない交渉は、初めから苦戦するのが目に見えているし、

どうしても彼女を振り向かせたいという想いは、「彼女を愛することを選んでいる」という意識がないと執着になって泥沼にはまるし、

「この会社よりいい条件で雇ってくれるところなんかない」と思えば思うほど、保守的になりいい仕事をするのは難しくなる。

これは目に見えるものだけではなくて、感情についても同じことが言える。

喜び、楽しみ、嬉しさ、愛しさといったポジティブな感情は、悲しさ、寂しさ、憎しみ、怒りといったネガティブな感情と向き合った分だけ感じられるようになる。 

それを臭い物に蓋をするように抑え込んだり、抑圧したり、目を逸らしたりすると、そのネガティブな感情はくすぶって、拗ねて、自分の方を向いてほしいと自己主張を始め、なかなかその螺旋から抜け出すことができない。

選択肢があることを、認めること。許すこと。

選択肢を持つということは、自分の価値を十二分に認める事ができている、とも言い換えられる。

先に挙げた会社やパートナーの例だと分かりやすいのだが、

「世の中には、私の素晴らしい才能や価値を分かってくれるところが必ずある」

「残念だけれども、自分の愛が届かないことも、ときにはある。その愛の偉大さ、尊さを理解して受け取ってくれる人が必ず現れるさ」

と思えるのは、自分の才能のすばらしさや価値の偉大さ、愛の深さを自分で認めてる人だけだ。

ということは、 

己が無力さを知ること、
叶わない夢があると知ること、
どうやってもたどり着けない場所があると知ること、
負けを認めて白旗を上げること。

をできる人というのは、ものすごい「強さ」を持った人ということになる。

卑屈になるのでも、投げ出すのでも、自暴自棄でもなくて、
ただ、「いま」そうなのだ、と認めること。

「諦念」とも呼ぶべき、その静かな境地。

またの名を、「自立を手放す」とも呼ぶ。

それは、

無力であったところで、
夢が叶わなかったところで、
たどり着けない場所があったところで、
負けを認めたところで、

絶対に損なわれない自分の素晴らしい価値、というものを分かっているから、できる行為なのかもしれない。

己が無力さを知ること、
叶わない夢があると知ること、
どうやってもたどり着けない場所があると知ること、
負けを認めて白旗を上げること。

卑屈さからではなくて、それを認める者に天は微笑む。 

その先には、すべて自分の力でたどり着こうとした地点からは、想像もつかないくらい素晴らしい場所が待っているかもしれない。

あの青空の雲たちのように、ただ流れに身を任せてみよう。 

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