近所の川沿いの桜並木に、ぼんぼりが設置されていた。
その灯りが照らす桜を見たくなって、日が暮れてから川沿いを歩いた。
久しぶりに眺める、夜桜だった。
まるで冬に逆戻りしそうな、ここのところの寒さのせいか、
あるいは、遅い時間のせいか、
桜並木はひっそりと静まり返り、ぼんぼりの灯りだけがにぎやかだった。
自分の歩く足音が響く。
時おり、ランニングをする人の吐息と衣擦れの音が近くなり、また遠ざかっていった。
こういう時間は、内省の時間になる。
京都にある「哲学の道」という桜の名所を一度訪れたことがあったけれど、その名づけは言い得て妙だ。
日々、いろんな情報を目にするし、いろんな人から刺激を受けるし、いろんなことが起こるし、それによっていろんなことを考えさせられる。
けれども、大切なのは、わたしは何処へも行かない、ということなのかもしれない。
歩くにせよ、走るにせよ、目を閉じるにせよ、それらは自分自身の場所を見つめる時間のように思う。
何もしない時間が、とてもだいじ。
何もしない時間があるからこそ、何かをする時間が生まれる。
頭に浮かんでは消えていくことを、ただ判断したり否定したり気に留めたりせず、ただそのままにしておく。
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高校時代、通っていた高校にとても面白い話をする先生がいた。
社会科の担当で、公民や倫理を教えていたのだが、とても話に惹きこまれる何かを持っていた。
縁あって、いろんなことをお話しすることができた。
放課後の社会科の教室で、日が暮れるまで話し込んだ。
大学で物理学を志し核融合の研究を目指したそうだが、「ものごとのことわり」を突き詰めていくうちに、いつのまにか哲学を修めていたと聞いた。
哲学の歴史から、宗教と科学の関係について、教育についてなど、ああだこうだといろんな話を聞くのは、ただ楽しかった。
宇宙のことについての話が出たときのことだったように思う。
その当時の物理学では、百五十億年先には太陽が膨張して地球を飲み込んでしまうだろう、という予想がされていると聞いた。
自分が生きているはずもない、そんな先の話を聞いて、なぜか私は心配になった。
「そのとき、せっかくいままで築き上げてきた人の「知」だったり、「美」というものはどうなるんでしょうね」
そんな百五十億年も先には、
自分自身も、
自分の愛した者たちも、
自分を愛してくれた人たちも、
生きていないのは当たり前なのに。
「どうなるかなんて、そんなことは科学者たちは考えないよ」
その先生は笑っていた。
窓から差し込む冬の陽の光が、机を照らしていた。
そのオレンジ色が寂しそうに見えて、なぜか、百五十億年後のことが無性に悲しくなったのを覚えている。
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夜桜を照らすにぎやかな灯りを見上げていると、やはり普段は思い出さないようなことが浮かんでくる。
いまとなっては何の意味も為さない、その数十年前の会話。
それでも、私はその陽射しのオレンジ色の寂しさと、百五十億年先への心配を覚えている。
そんなどうでもいいようなことの積み重ねが、いまのわたしを形づくっているのだろう。
おそらくそれは、誰もが、同じように。
風は冷たく、身体は芯まで冷えてきたようだ。
そろそろ帰ろう。
角を曲がると、家の灯りが見えてきた。
オレンジ色の、灯りだった。
今日は、寂しそうな色ではなかった。