大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

ツルさんと休まず仕事をした2カ月半。

春先のぼんやりとしたこの暖かさが、今日は鬱陶しかった。

秋のような空気の透明感はなく、それでいて初夏のような日差しに蒸された車内は、汗ばむくらいの気温になっていた。

行き道からずっと痛かった右の後頭部あたりが、また一段と熱を持ったように痛んだ。

雨が降る前になると、この手の頭痛がすることが私にはよくあるのだが、今日は気圧が下がっている感じもしない。

ぼんやりとしていて、それでいて頭の痛くなるこの感じは、4月の春先あたりによく感じるように思う。

やはり、春先というのは、生き物にとって心身ともに不安的な時期なのだろうと思う。

今日も今日とて、難しい交渉になった。

さて、どうしたものかと痛む頭を抱えてみるが、妙案が思い浮かぶわけでもない。

手持ちのカードに制限のあるゼロサムゲームに、関係者すべてが納得する答えを見いだすのは、難しい。

どうやっても納得しない者が出るのなら、あとは「落としどころ」だけなのだろう。

私は考えるのを止めた。

ハンドルを握る手に日差しが当たり、手の甲がじりじりと灼けた。

春というよりも、もう初夏だな、と思う。

ナビに案内された通りに従っていると、見覚えのある道に出た。

幹線道路が高架で合流する、特徴的な風景。

不意に、ツルさんの顔が思い浮かんだ。

ツルさん、元気にしているだろうか。

15年ほど前、私はある港の近くの物流センターにいた。

お中元の伝票発行と包装業務をその物流センターに集約しており、その管理業務の担当者として。

折しも大掛かりな新しいシステムが導入されてから初めての繁忙期で、誰もが手探りの中での業務だった。

伝票発行と管理、商品発注、包装業務の手配、社内外からの問い合わせ対応、アルバイトの方の勤怠管理。

いま振り返れば、そんな業務の名前が付くのだろうが、社会人としての経験も薄い中で、私は完全に一人で抱え込んでワーカホリックになった。

毎朝、バスに揺られてその陸の孤島のような物流センターに通う。

その通り道が、あの特徴的な幹線道路が交差する高架だった。

そのバスに乗っている時間だけが、電話も問い合わせもない、気の抜ける時間だったように覚えている。

毎日の発注の締め切り時間に追われていると、いつも食堂の開いている時間を逃した。

最終のバスを逃すと、悲惨だった。

陸の孤島から地下鉄の駅まで、延々と歩かなくてはならなかったからだ。

結局、5月の終わりの中元の準備から、お盆前の受注終了まで、2カ月半ほど休めなかった。

休めなかったのか、休まなかったのかと言えば、やはり「休まなかった」のだろう。

一緒に派遣されたもう一人の担当者は、手際よくアルバイトの方と仕事を分担して、「いつでも仕事変わるし引き継ぐから、休めよ」と言ってくれた。

けれども、私は休まなかった。

休まないことで、自分の価値を証明するために。

その証明したかったものとは、

「自分の仕事は、無給でもサービス残業でもいいです。それくらいの価値しかありません」

という誤った自己意識だったのかもしれない。

働き方改革云々の前に、結局そのマインドに陥ると、人はどれだけでも進んで奴隷になる。

当時、包装業務を委託していた先に、某大手運送会社があった。

なんでも物流センターの長と、相手方の倉庫部門の所長が、社会人野球でつながっていたらしく、その縁で仕事をお願いしていたと聞いた。

その所長の名字から、私は彼を「ツルさん」と呼んでいた。

当時で50代後半くらいだったように思う。

元野球選手らしく堂々とした体躯に、日焼けした浅黒い肌。

ワイシャツを着ても、その胸板の厚さは隠しきれないようだった。

そんな風貌とはうらはらに、腰の低い人だった。 

優しい、眼をしていた。

毎日夕方になると、伝票と包装する商品を引き取りに、アタッシュケースを片手に、

「どうもーこんちはー」

という低い声の挨拶とともに、物流センターを訪れてきた。

さすがに夕方にもなると電池の切れてきていた私を相手に、世間話とも仕事の話ともつかないような与太話をして、伝票を大事そうにアタッシュケースに仕舞って自社の倉庫に持ち帰っていった。

二十代前半のいっぱいいっぱいになっている若造にも、礼儀礼節を失わない人だった。

社内営業に疲れた私にとって、ツルさんは数少ない味方のように感じていたように思う。

ツルさんもまた、休まなかった。

覚えているだけで、私がいる日にツルさんが伝票を取りに来なかった日は、なかった。

「ツルさん、ちゃんと休んでくださいよ」

「いや、私はいいんですよ。それより大嵜さんも休まないとダメですよ。まだまだ先は長いですから」

そんな会話を、いつもしていた。

考えてみれば2ヶ月半以上も1日たりとも休んでいなかったのに、ツルさんには不思議と「悲壮感」や「やらされている感」がなかった。

その立派な風貌が、そう見えさせていたのかもしれない。

「ブラック企業」や「労働生産性」といったワードが叫ばれ、機械やAIが人間の仕事を代替しだした現在から見ると、茶番のような仕事だったのかもしれない。

それでも、毎日プリンターから吐き出される伝票と発注書がうず高く積まれた山の中を、私は必死でもがいていた。

時折、ツルさんという船がやってきては、去っていった。

一度、ツルさんが勤める倉庫を訪れた。

トラブルか何かがあってだったように記憶しているが、たまには外に出たかったのかもしれない。

当時、完全なるペーパードライバーだった私は、陸の孤島から地下鉄とバスを乗り継いで、暑い夏の最中にその倉庫を訪問した。

ツルさんとともに出迎えてくれた女性の方もまた、優しい眼をしていた。

ツルさんが苦手だという細かい事務作業を、こなしているそうだった。

その話しぶりに、ツルさんの仕事の上での右腕なのだろうと思った。

陣中見舞いに、と持っていった菓子折りに、恐縮されていた。

「毎日、このお菓子のセットを包装してるんです」

そう言えば、何も考えずに買っていったその菓子折りは、いつも大量の包装をお願いしている商品だった。

「あぁ、さすがに別のお菓子にすればよかったですかね」

「いえ、みんなでどんなお菓子なのかな、って話してたところだったんで、嬉しいです」

そんなもんか、と思いながら、これでよかったんだ、と思い直した。

自社の倉庫で見るツルさんは、いつもにまして大きく見えた。

何で来たんですか?という問いに、地下鉄とバスと歩きで、と答えると、このクソ暑いのに、と笑っていた。

結局、ツルさんは自分の車で私を物流センターまで送ってくれた。

それは申し訳ない、と何度も断ったが、半ば無理矢理乗せられて、手間をかけさせてしまったと車中で小さくなっていた。

ツルさんは、「すいません、煙草吸いますね」と言って、紫煙をくゆらせていた。

半袖のシャツから、日に灼けた逞しい腕が覗いていた。

その後、ツルさんとはその年の歳暮も仕事をしたが、翌年は私が物流センターの担当から外れた。

翌年からはツルさんの勤めていた運送会社も、その包装業務の委託を受けなくなった、と後から聞いた。

なぜ、あんなにも休まなかったのだろう、と思う。

自分に価値を認められないと、自分を犠牲にしてその価値を証明しようとする。

ワーカホリックは、その典型なのだろう。

当時、両親を突然亡くした衝撃と、誰もいない土地で一人暮らしをする寂しさを抱えていた私が、そのアンダーグラウンドに嵌っていたのは確かなのだろう。

こんな自分には、無給・無休で働くような環境がふさわしい。

けれど、これだけ犠牲をして働いているのだから、誰か私の価値を認めて欲しい。

そんな私のセルフイメージの通りに、休まなかったのだろう。

その幹線道路を通り過ぎて行った。

西日のつくる建物の影に入る度、日が長くなったなと思う。

ツルさんに会いたいな、と思った。

ありがたいことに、私には仕事の関係が終わっても、その後も何がしかのお付き合いを続けて頂ける方もいらっしゃるのだが、ツルさんとは不思議とその後お会いすることはなかった。

私の携帯の発信履歴を埋め尽くしていたツルさんの番号も、私がよく携帯を水没させたり紛失したりする間に、失くしてしまった。

あれから15年ほど経ったが、いまツルさんは何をしているのだろう、と思った。

あんなにも休まなかったのは、私がワーカホリックで犠牲もしていたのかもしれない。

けれど、毎日やって来るツルさんが、好きだったんだろうな、とも思う。

「どうもーこんちはー」

というツルさんの声を聴きに、毎日毎日、通っていたのだろうと思った。

もし私がそうだとするなら、ツルさんもまたそうだったのだろうか。

そうであったら、いいな、と思った。

いまさら確認しようにも、しようがない与太話ではあるのだが。

車窓からは、西日のつくる影の中で、沿道のツツジが咲いているのが見えた。

頭痛は、まだ引かなかった。 

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