「鍵、預からせてもらえるかな」
駐車場所を案内してくれたオヤジさんは、さも当たり前のように話してきた。
ナゴヤ球場開催日にのみ営業してそうな、民間の駐車場貸し。
限られたスペースを最大限利用するための縦列駐車につき、後ろの車が出庫するときに必要なのだろう。
その移動の際の保証がどうこうとか、そういう細かい話を聞くのは野暮というものだろう。
特に断る理由もなく、鍵を渡す。
「それじゃ、あの家にいるから。帰るときは声かけてよ」
連絡先を告げることも名乗ることもなく、オヤジさんはスタスタとどこかへ歩いて行ってしまった。
平成もまさに終わろうとするこのご時世に、昭和の時代にタイムスリップしたかのような営業方法。
そういえば、私が幼い昭和の時代に父親の仕事の都合か何かで、父親の車で来たことがあった。
そのときも父親はこのような民間の駐車場に停めて、出庫するときに3,000円をその家の方に払っていたのを妙によく覚えている。
時代が平成に下った今日は1日700円だったのは、デフレというよりは一軍の試合と二軍の試合の違いなのだろう。
車を停めて、息子と娘とビルの上から見えるバックネットを頼りに球場を目指す。
そう、20年ぶり以上に、ナゴヤ球場へ中日ドラゴンズの試合を観に来た。
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調べてみると、中日ドラゴンズが本拠地をこのナゴヤ球場からナゴヤドームに移したのが、1997年らしい。
私が高校生のころだ。
その頃にはサッカーに熱中していた私は、もうナゴヤ球場から足が遠のいていたし、ナゴヤドームにも何度か観戦に行ったが、どうも小奇麗になってしまったあの空間に馴染めず、あまり行くことがなかった。
私がナゴヤ球場に行っていたのは、小学生の頃だったように思う。
父親か、家族で行く野球観戦は、私の楽しみの一つだった。
ドラゴンズの野球帽をかぶり、メガホンを握り締め、ライトスタンドで応援歌に声を枯らした。
その時間は、何よりも私の童心を魅了したように思う。
住宅街の中を少し歩くと、球場のバックネットが見えてくる。
おぼろげながら、幼い日の記憶が蘇ってくるようだ。
懐かしの、ナゴヤ球場。
そのロゴを見た瞬間に、幼き日に心躍らせた思い出が浮かび、目に涙があふれそうになる。
「ガッツ」こと小笠原道大・二軍監督のパネルがあり、嬉しくなる。
日本ハム時代から、あの魂を込めたかのようなフルスイングが大好きだった。
よくぞ、名古屋に来てくれたと思う。
今年のスーパールーキー・根尾選手のパネルも。
残念ながら今日は怪我で欠場だったが、またその勇姿を観に来たいと思う。
球場に入ると、ドラゴンズの練習の時間だった。
ボールがミットに収まる音と、掛け声が響く。
その音に胸は高鳴り、足が止まり、白球の行方から目を離せなくなる。
息子に早くしろと急き立てられて、ようやくまた席を探して歩き出す。
大型連休中らしく、たくさんの人が訪れていた。
以前の記憶とは配置の変わった内野席に、時間の流れを想う。
今日の相手の阪神の先発は、高橋遥人投手。
ブルペンでの投球練習から見ることができた。
そのボールのスピードに、改めてプロのすごさを想う。
一塁コーチボックスに、荒木コーチが入る。
テレビで見ていると華奢なように見えるが、実際に球場で見ると、それがとんでもない誤解だと分かる。
常人離れした堂々たる体躯が、ユニフォームの上からでも感じられる。
この日は曇りだったが、たまに吹く風が心地よかった。
ただ時折太陽が顔をのぞかせると、汗ばむくらいだった。
外野スタンドは、本拠地の移動にともない撤去されていた。
あの声を枯らしたライトスタンドは、もうない。
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やがて試合が始まる。
記憶の中の鳴り物で騒がしい観戦とは違い、白球がミットに収まる音、バットに当たる快音、審判のコール、ウグイス嬢の声。
そして、ストライクが入ったり、アウトを取るたびに、客席から沸く拍手。
その音が、たまらなかった。
心は小学生の頃の童心に、還っていた。
投手がサインに頷く。
一瞬の静寂。
モーションに入り、視線が集まる。
淀みのないフォームから放たれる白球。
阪神の選手のスイングとともに、快音が響く。
打球は右中間を真っ二つに破る。
歓声が、起こる。
「三つ、三つ!」という声が聴こえる。
打った選手が、三塁まで到達して、両手を叩いて喜ぶ。
球場が、熱を帯びる。
野球の華はホームランだとよく言われるが、私は三塁打が華だと思う。
打って、走って、歓声を浴びて、そして塁上にランナーとして残って。
カッコいいのだ。
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もう30年も前に、照明に照らされた空間は、まるで夢舞台のようだった。
一つのヒットに、大きな大きな歓声を上げて、声を枯らして応援した。
緊張の中、快音とともに大きな打球がライトスタンドに飛んでくる。
その乾いた快音に、心を躍らせた。
カクテルライトの中に舞う紙吹雪が綺麗で、床に落ちたそれを拾い集めて、何度も何度もそれを空に投げた。
帰り道では、いつもその欠片が肌着の中まで入りこんで、チクチクと痛かった。
紙コップのビールを美味そうに飲んでいた父親は、いつになくよくしゃべっていたように思う。
あの当時にいったいどういう仕事をしていたのか分からないが、ドラゴンズのすべての遠征に帯同していたという、まさにライフワークを生きていたであろう同僚も、よく父親のところに挨拶に来ていた。
家では、見られない顔だった。
愛された、記憶だった。
三塁上でアームガードを誇らしげに外す選手を眺めながら、私の心は三十年前に飛んでいた。
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3回終了時に、もう息子と娘は飽きたようで、かえってキャッチボールをしたいと言ってきた。
もうお腹いっぱいだった私も、それに同意して帰ることにした。
またいつでも来ればいい。
どうしても、あの声を枯らしたライトスタンドを間近で見たくなり、内野席の端まで行ってみる。
あの想い出のライトスタンドは、最前列の席を残して、撤去されていた。
あのわずかに残った席にも、もしかしたら30年前に座ったかもしれないと思うと、殊更にセンチメンタルになった。
もう面影もなくなったけれど、音の記憶と、愛された記憶は残った。
また白球の音が聞きたくなったら、ここに来よう。
音の記憶と、愛された記憶を思い出しに。
早くしろと抗議する息子に、後ろ髪を引かれながら入場門に向って私は歩き出した。
そういえば、こんな早い時間の帰りで、車の鍵を預けた駐車場のオヤジさんは在宅してるだろうか、などと歩きながら思った。