自分自身の内面(マインド)が変わると、自分の周りの世界が変わる。
正確を期すなら、起こっていることは全てナチュラルで、内面が変化したことによって、起こったことへの行動が変わる、ということなのだが。
私の場合は、いつもそれを小さな先生が教えてくれるようだ。
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一泊二日で、一人に出た。
三重県・熊野、和歌山県・新宮、奈良県・十津川村、天川町と行きたかった場所をめぐり、そして大阪は吹田市で会いたかった人に会いに。
また紀行文は綴ろうと思うが、今回は車での一人旅だったので、二日間での走行距離が約650キロと運転が苦手な私としては、頑張った。
しかも、その多くが奈良県山中の変態的にグネグネした山道だったし、折しも改元にともなう10連休中で帰りに結構な渋滞につかまったりしたため、さすがに走り終えて帰宅した際の疲労度も半端がなかった。
それでも、行きたいと思った場所に行け、会いたいと思った人に会え、クリスタルボウルの音色に癒され、心底満たれた旅だった。
旅は最高の自己投資だと言われるが、「お金」「時間」「労力」とすべてのものを投資するのだから、それだけ得られるものも多いのは間違いない。
そんな旅から帰ってきた翌日のこと、分かりやすい外界の変化があった。
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夕飯の支度のために玉ねぎを輪切りにしていると、突然落書き帳に絵を描いていた息子が癇癪を起こした。
うまく「瓦」が書けないことに端を発したのだが、どうにも収まらない。
あぁ、またきたか、と思った。
私自身の内面(マインド)が変わったり、あるいは寂しさに気づいたり、癒されたりするごとに、まるで灰汁が浮き出てくるように、子どもたちは分かりやすく「私の」心の闇を見せてくれてきた。
自分自身が痛烈に自己否定をしていることを自覚した際には、息子が同じようなことで暴れてくれたし、
自分を犠牲にしてハードワークをしていたことをやめられたら、そのお試しテストが娘から出されるし、
自分の最も見たくなかった心の闇を、息子は余すことなく見せてくれたり、
小さな先生は時に優しく、時にハードに私の内面を教えてくれる。
「全然できない」
「何回描いてもうまく描けない」
「ひらがなも間違えてばかり」
泣きながら訴える息子を抱いて、娘に一声かけてから、久しぶりに川沿いの道を抱っこで歩いた。
「できなくて悩むのは、それは君に才能があるからなんだ。そもそも才能がなければ、悩みすらしない。その瓦が描けなくて癇癪を起こせるくらいのエネルギーは、すごい才能なんだ」
「そして、おとうは君の描いた絵が見たい。漫画が読みたい。きっとおかあもそうだと思うよ」
「ここは学校じゃない。正しいも間違ってるもない。ただ、好きだから描いてるだけだろう?だったらすきなだけ描いたらいい。何冊でも、何十冊でも、落書き帳を買ってくるから」
「別に絵を描いてるからすごいって言ってるんじゃない。別に気が向かなかったら、やめたらいい。キャッチボールがやりたかったら、それを思い切りやればいい」
「そんでな、その好きなことをやってると、なぜかそれで喜んでくれる人が現れるんだよ。それは絶対にそうなんだ。君の時代は、もうそれが当たり前になってるはずだ」
「おとうの眼を見て、『ぼく、すごいんだよ』って10回言ってみな」
…とまあ、さっきから偉そうに言っているその台詞の全ては、ほんとは誰に向けて言いたいことなのかな…と考えて、悶絶する。
また、教えられてしまった。
ダレカニイイタイコトハ、ジブンニイイタイコト。
分かってるさ、そんなこと。
浮き出てきた灰汁を掬ったように、まるで憑き物が落ちたように落ち着きを取り戻した息子は、再び机に向かって絵を描き始めた。
息子の友達の、恐竜の一日を描いた絵本のようだった。
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節目節目で、小さな先生はテストを与えてくれる。
そこで言いたいことは、すべて自分に言いたいこと。
それを守らないといけないのは、自分自身なのだ。
言葉の重みは、それを使う人の行動によって決まる。
偉そうに吐いた言葉に説得力を持たせるためにも、自分自身がその言葉の通りにしないとな、と改めて思う。
夕飯の前に散歩をしながら、屋根より高い鯉のぼりを見つけて、息子が喜ぶ。
そういえば、今日は端午の節句、子どもの日だった。
子どもの日のはずなのに、親がギフトをもらってしまったな、と思う。
いつもそうだ。
与えるつもりが、逆にその何倍ものギフトを与えられている。
息子と相談して、少し寄り道してちまきと柏餅を買って帰ろることにした。
だいぶ日が長くなったな、と思った。