大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

受け取る、受け取らないを超えて。

根っからの受け取り下手の私は、自分の何かを褒められたり、魅力を伝えられたりするとが、いまだに苦手だ。

そんなことないです
いや、私よりすごい方いらっしゃいます

と、冷や汗をかきながら、超高速首振り機能のついた扇風機のようになる。

それでも、伝えてくださった方の気持ちを全力で受け取ろうと思い、ニッコリ笑って「ありがとう」を伝えようとするようにはしている。

けれど、

私は受け取って欲しくて、メッセージを伝えたわけではないんです。

と彼女は言った。

頑張り屋さんだったり、
生き辛さや息苦しさを感じたり、
ワーカホリックだったり、
他人の顔色を窺ってしまったり、
周りよりも自分を犠牲にしていたり、
いつも報われなかったり、

そんな傾向のある人にとって、人生を一変させる可能性があるのは

「いまそこにある愛を受け取る」

ということだ。

それは、書いている私が実体験をもって言うことができる。

過去に受けた何らかの心の傷が化膿して、人は愛を受け取ることを拒否することがある。

欲しかった愛を得られなかった、
愛する人から大切にされなかった、
恋人と不本意な別れ方をしてしまった…

その傷は、人それぞれにあるのだろう。

「もらえないんなら、もういらない。その代わりに、私が与える」

人は傷ついた心に蓋をして、そうして愛を与える側に回ろうとする。 

愛を与えることで、自分の存在理由と価値を証明するように。

けれど、往々にしてそうして与える愛は「代償」であり「犠牲」であり「取引」であり、相手と循環させることは難しい。

どこかで、枯れるからだ。

そうした状態になったときに、「愛を受け取る」というのは、とても怖い。

周りからの愛を受け取ること

ニッコリ笑ってありがとうと言うこと

努力せずに愛され幸せになること

何にもせずに大事にされること

周りに頑張ってもらって自分はのほほんとしていること

そうしたことが絶対に許せないし、強烈な怖れを覚える。

それはそうだ。

いままでの常識は、「これだけ自分を犠牲にしたから、これくらいは愛をもらっていいよね」という前提に基づいているのだから。

けれど、人生において八方塞がりのように感じるとき、新しい道を開くのは「いままで絶対にイヤ」と思っていたことなのかもしれない。

私自身も、そうだった。

自分の存在価値を示すために、相手の都合も何も考えず、愛を与え、押し売り、投げつけ、それに対して金利を乗せたリターンを求めた。

相手が金利どころか、レバレッジを大きく効かせた愛を返してくれたとしても、その膨大な愛の塊のうちの、溢れ出るしずくくらいしか受け取ろうとしなかった。

受け取ったら、負けのような気がしたから。

まあそんな暴挙を繰り返すのも、仕方ないくらい傷ついていたともいえる。

言えるのは、不惑を前にしてようやく

「いまそこにある愛を受け取ろう」

「ニッコリ笑ってありがとうと言えるようになろう」

と思えるようになった、ということである。

ところが、前述の彼女の言は、その範疇を外れていた。

誰かを助けるのに理由がいるかい?

とは、私が大好きだったテレビゲーム「ファイナルファンタジー9」の主人公・ジタンの台詞だが、同じように、誰かに愛を伝えるのに理由はいらないのかもしれない。

もしそうだとするなら、それを伝えられた方もまた、無理に何かしようと思わなくてもいいのかもしれない。

もしかしたら、受け取ってほしいから、それを伝えているのでは「ない」かもしれない。

ただ、それを伝えたいから。

それを相手がどう受け取ろうとも、伝えたかったから。

ただ、「私は」そう思った、と。

もしかしたらそれは、「無償の愛」と呼ばれるものなのかもしれない。

先日の旅で玉置神社を訪れた際、帰り道の参道で、ただそこに咲く花を見かけた。

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一人で山道で迷いそうになったり、心細かったり怖かったりした道中の終わりに見かけたその花は、殊更美しかった。

気付くと私はその花に歩み寄り、

綺麗だねぇ。

ありがとう。

と愛を伝えていた。

そこに理由も何もなかった。

もしかしたら。

彼女もまた、同じように伝えてくれたのかもしれない。

そこには、与えるも受け取るもないのかもしれない。

ただ、そこにあるだけ。

いつも、それに気づくだけ。

誰かを「愛する」ことは

本当に本当に何よりも幸せだという事を。

誰かを「愛する」姿は

本当に本当にそれだけで美しい。

本当に本当に、彼女の言う通りなのだろう。

私も、ただ伝えたい。

ありがとう、むさ苦しいほどの、愛の人