根っからの受け取り下手の私は、自分の何かを褒められたり、魅力を伝えられたりするとが、いまだに苦手だ。
そんなことないです
いや、私よりすごい方いらっしゃいます
と、冷や汗をかきながら、超高速首振り機能のついた扇風機のようになる。
それでも、伝えてくださった方の気持ちを全力で受け取ろうと思い、ニッコリ笑って「ありがとう」を伝えようとするようにはしている。
けれど、
私は受け取って欲しくて、メッセージを伝えたわけではないんです。
と彼女は言った。
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頑張り屋さんだったり、
生き辛さや息苦しさを感じたり、
ワーカホリックだったり、
他人の顔色を窺ってしまったり、
周りよりも自分を犠牲にしていたり、
いつも報われなかったり、
そんな傾向のある人にとって、人生を一変させる可能性があるのは
「いまそこにある愛を受け取る」
ということだ。
それは、書いている私が実体験をもって言うことができる。
過去に受けた何らかの心の傷が化膿して、人は愛を受け取ることを拒否することがある。
欲しかった愛を得られなかった、
愛する人から大切にされなかった、
恋人と不本意な別れ方をしてしまった…
その傷は、人それぞれにあるのだろう。
「もらえないんなら、もういらない。その代わりに、私が与える」
人は傷ついた心に蓋をして、そうして愛を与える側に回ろうとする。
愛を与えることで、自分の存在理由と価値を証明するように。
けれど、往々にしてそうして与える愛は「代償」であり「犠牲」であり「取引」であり、相手と循環させることは難しい。
どこかで、枯れるからだ。
そうした状態になったときに、「愛を受け取る」というのは、とても怖い。
周りからの愛を受け取ること
ニッコリ笑ってありがとうと言うこと
努力せずに愛され幸せになること
何にもせずに大事にされること
周りに頑張ってもらって自分はのほほんとしていること
そうしたことが絶対に許せないし、強烈な怖れを覚える。
それはそうだ。
いままでの常識は、「これだけ自分を犠牲にしたから、これくらいは愛をもらっていいよね」という前提に基づいているのだから。
けれど、人生において八方塞がりのように感じるとき、新しい道を開くのは「いままで絶対にイヤ」と思っていたことなのかもしれない。
私自身も、そうだった。
自分の存在価値を示すために、相手の都合も何も考えず、愛を与え、押し売り、投げつけ、それに対して金利を乗せたリターンを求めた。
相手が金利どころか、レバレッジを大きく効かせた愛を返してくれたとしても、その膨大な愛の塊のうちの、溢れ出るしずくくらいしか受け取ろうとしなかった。
受け取ったら、負けのような気がしたから。
まあそんな暴挙を繰り返すのも、仕方ないくらい傷ついていたともいえる。
言えるのは、不惑を前にしてようやく
「いまそこにある愛を受け取ろう」
「ニッコリ笑ってありがとうと言えるようになろう」
と思えるようになった、ということである。
ところが、前述の彼女の言は、その範疇を外れていた。
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誰かを助けるのに理由がいるかい?
とは、私が大好きだったテレビゲーム「ファイナルファンタジー9」の主人公・ジタンの台詞だが、同じように、誰かに愛を伝えるのに理由はいらないのかもしれない。
もしそうだとするなら、それを伝えられた方もまた、無理に何かしようと思わなくてもいいのかもしれない。
もしかしたら、受け取ってほしいから、それを伝えているのでは「ない」かもしれない。
ただ、それを伝えたいから。
それを相手がどう受け取ろうとも、伝えたかったから。
ただ、「私は」そう思った、と。
もしかしたらそれは、「無償の愛」と呼ばれるものなのかもしれない。
=
先日の旅で玉置神社を訪れた際、帰り道の参道で、ただそこに咲く花を見かけた。
一人で山道で迷いそうになったり、心細かったり怖かったりした道中の終わりに見かけたその花は、殊更美しかった。
気付くと私はその花に歩み寄り、
綺麗だねぇ。
ありがとう。
と愛を伝えていた。
そこに理由も何もなかった。
=
もしかしたら。
彼女もまた、同じように伝えてくれたのかもしれない。
そこには、与えるも受け取るもないのかもしれない。
ただ、そこにあるだけ。
いつも、それに気づくだけ。
誰かを「愛する」ことは
本当に本当に何よりも幸せだという事を。
誰かを「愛する」姿は
本当に本当にそれだけで美しい。
本当に本当に、彼女の言う通りなのだろう。
私も、ただ伝えたい。
ありがとう、むさ苦しいほどの、愛の人。