頑張ってきたこと、積み重ねてきたこと、努力したことには価値がある。
それはその通りだと思う。
けれど、もしかしたらその裏側には、
頑張ってきたこと、積み重ねてきたこと、努力したことにしか価値がない。
という意識が、深いところで刷り込まれているのかもしれない。
ほんとうのところは、そこにいるだけで価値があるのに。
そしてもっと言うならば、そこでいう価値なんていうのは、人生における幸せと何の関係もないのかもしれないのに。
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気付けば、私がここで毎日文章を綴り始めて、2年弱が経った。
エントリーした記事の数は、累計で670を超えた。
それだけ積み重ねたことが、自信になったか?と言われると、そうでもない。
「いやぁ、もっと長いこと継続している人はいっぱいいるし、もっと記事をたくさんアップしている人はたくさんいるし、アクセスたくさん集めてる人はもっといるし…」
と、数字や他人を使って、価値を認めないようにしてしまうこともある。
積み重ねたもの、頑張ったこと、努力してきたことというのは、一見、自信や価値を与えてくれそうなものだが、どうやらそうではないらしい。
自己受容、自分の価値を認めるとは、何かができることや、秀でている点や、優れている点を認めることではなくて、最低な自分、ダメな自分、できていない自分を認めることだとよく言われる。
それは、ほんとうにその通りだと思う。
結局、「積み重ねてきたこと」や「頑張ったこと」、「努力してきたこと」による自信というのは、それ以上に積み重ねてきたり、頑張ったり、努力してきた人を見つけると途端に崩れ落ちる。
自分の価値とは、そんなところにあるのではない。
ダメでも劣っていても役に立たなくても愛されなくても出来なくても、自分には価値があると信じること。
それを信じるに足る根拠や理由やことわりも何もなくても、心の底から信じて疑わないこと。
それを、自信と呼ぶ。
それは頭で分かっていても、なかなか肚に落ちるのは難しいものだ。
ひたすら頑張って、積み上げて、努力して…それでも、認められない自分がいることに絶望して、ようやく少しずつ肚落ちしてきたように思う。
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ところが、これが他人の話になると、もうあなたは無条件で価値があるんだよ、とむさ苦しく伝えたくなる。
週末に息子と話していると、小学校の話になった。
4月から通い始めた小学校の勉強やら運動やら、他の子と比較してしまうらしい。
3月まで通っていた保育園が、園児の自主性を尊重する園だっただけに、小学校の画一的な勉強やら運動やらは、なかなか慣れないのだろうな、と思う。
少し、言葉を選びながら話をした。
「おとうも、まだまだ何かができるから価値があるって思っちゃうんだけど、ほんとはそうじゃないんだろうな。ほんとは、誰もが、そこにいるだけで価値があるんだよ。まさに君がそうだよ」
「そうなの?なんで?」
「うーん、そうだなぁ。誰でも、産まれたときは赤ちゃんだったやんか。保育園でもウサギ組さん、いただろ?」
「いた」
「ウサギ組さんの子たち、何かできた?自分でご飯も食べれないし、お着替えもできないし、トイレもできない。それでも、赤ちゃんが見てると、みんな幸せにならん?」
「うん、なる」
「生まれてきただけで、誰もが周りの人を幸せにしてると思うんだよ。みんな、大きくなってくとそれを忘れちゃって、何かができることや、何か身につけたことや、何か頑張ったことで、価値があると思うようになっちゃう。逆なんだよなぁ、ほんとは」
「ふーん」
「もちろん、何かができるのは素晴らしいし、頑張ることも素晴らしい。けれど、何かができないから価値がない、頑張らないから価値がない、ってわけじゃないんだよな、べつに」
「ふーん」
「まあ、だからできるできないとかで価値を見るより、好きなことを好きなだけやればいいんだよなぁ、ほんと」
とまあ、いつも通りの『息子に話しているようで、実は自分に言い聞かせている』状態になったのだが、この日の息子は一味違ったようで、次の一言に私はやられた、と思った。
「ふーん。ところで、『かち』ってなんだ? 」
「へ?…『価値ってなんだ?』か…何なんだろうな…ほんと…。まあ、知らなくても、君のように幸せに暮らせるんだから、別にそんなに意味なんて、ないものなんだろうな、うん」
「なんだ、それは!ちゃんとおしえろ!」
それ以上に「かち」を説明する言葉を持たなかった私は、そう凄む息子をはぐらかした。
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頑張ったこと、積み重ねたことで認められて、自分の価値を見る。
それが癖になると、どこかで「そうでない自分」には価値がない、と刷り込んでいるのかもしれない。
ほんとのところは、そうじゃないんだ。
ただ、いるだけで価値があるんだ。
それを思い出すだけ。
そして、そもそも価値なんて、人生における幸せとは何の関係もないのかもしれないのだ。
青い空の色、白い雲の形、緑色の深み…
ただ目の前の奇跡のようなその美しさに、感動する童心。
それがあれば、もう何もかもそれでいいんじゃないかと思うのだ。