今日は二十四節気の一つ、「芒種(ぼうしゅ)」。
「芒(のぎ)」とはイネ科の植物の穂先のことで、穀物の種まき、麦の刈り入れ、イネの植え付けに適した時期とされ、徐々に梅雨入りの報せが聞かれるころ。
前日までとは少し違って蒸し暑く、湿った空気が流れているように感じる。
芒種だと聞いたからなのか、それともたまたまそうだっただけなのか。
つながりが切れたと感じるとき。
暗い落とし穴に嵌ったように感じるとき。
身体の一部がなくなるような痛みを覚えるとき。
息をしていることに苦しさを感じるとき。
そうしたときに、いつも私は季節のめぐりに目を向ける。
ただ目の前の草花か、空の色か、陽の光か、虫の音か、そんなものに、季節の永遠の移ろいを見る。
ジュリア・キャメロンは、それを実に上手く表現する。
細部を見ることは、つねに癒しをもたらしてくれる。それは特定の痛み(恋人を失う、子どもの病気、打ち砕かれた夢など)への癒しとしてはじまるが、最終的に癒されるのは、すべての痛みの根底にある痛みである。リルケが「言葉で言い表せないほどの孤独」と表現した、誰もが抱えている痛み。注意を向けることによって、私たちは人や世界とつながる。
(中略)
心が痛んでいるときに、たとえば将来が怖くて考えられないときや、過去が思い出すのもつらいとき、私は現在に注意を払うことを学んだ。私が今いるこの瞬間は、つねに、私にとって唯一、安全な場所だった。その瞬間瞬間は、かならず耐えられた。今、この瞬間は、大丈夫なのだ。私は息を吸い、吐いている。そのことを悟った私は、それぞれの瞬間に美がないことはありえないと気づくようになった。
ジュリア・キャメロン著「The Artist's Way(邦題:ずっとやりたかったことを、やりなさい)」より
ある何かの特定の「痛み」。
大失恋をする、
ひどい苛めに遭う、
病を患う、
大切な人と死別する…
そうした特定の「痛み」は、それを経験した人の世界を大きく変える。
いままで漠然と眺めていたようには、世界を見れなくなる。
もう絶対に愛さない。
人は信頼できない。
世界は理不尽だ。
大切な人は突然いなくなる。
そうした色眼鏡をかけるようになる。
もうこれ以上、傷つかないために。
その色眼鏡を外すことを、「癒し」と呼ぶのだろう。
「癒し」が進むと、ある特定の「痛み」は、もっと根源的で普遍的な「痛み」の層にぶち当たる。
それは、孤独感のように思うのだ。
誰しもが、暖かい羊水に浸り、生命の糸でつながっていた母親の胎内にいた。
そこから、冷たく身を刺すような外気の世界に放り出され、母親とつながっていた臍帯を切られたときから、それは始まるのだろうか。
つながりが切れていると思えばこそ、孤独感は募り、何かで埋めようとする。
たとえそれが、孤独感を忘れさせてくれる別の「痛み」だったとしても、孤独感を忘れられるなら、そちらの方がいいと思うのかもしれない。
つながっていない。
世界に自分しかいない。
誰も自分と分かり合えない。
切れている。
それは、「寂しさ」と表現するよりも、「虚無感」と呼んだ方が近いのかもしれない。
凍えるような絶対的な、孤独感。
自分以外誰もいないという、虚無感。
キャメロンが
リルケが「言葉で言い表せないほどの孤独」と表現した、誰もが抱えている痛み。
と書いているのは、そうしたものなのかもしれない。
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キャメロンは、その「痛み」に続いて、こう書いている。
母が亡くなった晩、電話をもらった私は、セーターを持って家の後ろの丘を登っていた。雪のように白い大きな月が、椰子の木ごしに昇っていた。その晩遅く、月は庭の上に浮かび、サボテンを銀色に洗っていた。母の死を振り返ると、あの雪のように白い月を思い出す。
同上
母が亡くなったあの年の春、
私はあるお寺の境内でしだれ桜を眺めていたのを覚えている。
母の死を思い出すとき、
私はあの焦点のぼやけたピンク色を思い出す。
あのしだれ桜を見るように、
今日も私はただ目の前の景色を見る。