早いもので、令和初の日本ダービーからもう半月が過ぎた。
浜中騎手とロジャーバローズのウインニング・ランの勇姿。
いまも瞼に焼き付いている。
あれから時間を重ねてあのダービーを思い出すたび、聴こえてくる声がある。
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今回のダービーでは、西山牧場の執念・ニシノデイジーと勝浦騎手を応援し、しこたま馬券を買っていた。
同時に、圧倒的1番人気のサートゥルナーリアを軸とした馬券も、しこたま買っていた。
ところが、先頭でゴールを駆け抜けたのは、12番人気・単勝9,310円のロジャーバローズだった。
馬群がゴールを駆け抜けた後の、唖然とした場内の雰囲気。
称賛も怒号もなく、ただ、結果を呆然と眺めるしかない。
圧倒的1番人気を背負った馬が、負けた。
あれほど確実だと思われた未来は、わずか142秒6の刹那が過ぎれば、ただの儚い妄想だったことを思い知る。
突然冷や水をぶっかけられたような、
微笑みを湛えた美女にいきなり頬をピシャリと叩かれたような、
感覚で明らかに遅刻と分かる時間に目が覚めた瞬間のような、
…そんな時間。
居合わせた者は、呆然と顔を見合わせる。
これは現実か、と。
しこたま買って、しこたま皮算用した馬券は、一瞬で紙屑になる。
メモ用紙にもならぬ。
理不尽だ。
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ダービーの翌週の安田記念でも、圧倒的な1番人気に支持された現役最強の誉れ高きアーモンドアイが敗れた。
スタート直後に他馬が斜行して不利を受け、厳しい後方からの競馬を強いられる。
先行馬の止まらない馬場とペースの中、アーモンドアイはそれでも異次元の鬼脚でよく追い込んできたが、わずかに届かず3着まで。
誰が見ても、一番強い競馬をしたのはアーモンドアイだったが、彼女にとっては理不尽な不利を受けて勝ち馬にはなれなかった。
強い馬が勝つとは限らないのが、競馬だ。
それは理不尽ではあるが、競馬の魅力でもある。
強い馬、速い馬と勝ち馬がイコールの競馬など、観る価値もないではないか。
「思いもよらぬ理不尽な不幸が起こること」
を受け入れるということは、
「なんか理由はよくわからんけど幸運に恵まれる」
ということだ。
理不尽さを、受け入れろ。
それは、人生の豊かさと同義なのだ。
テレビの前で、そんなことを考えながら祭りの後の感傷にふける私に、
「お馬はもうはしりおわったから、はやくあそびにいくぞ!」
と息子は急かす。
理不尽だ。
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よくよく考えてみれば、人生の中で確実なことなどありはしないではないか。
唯一あるとするなら、この不自由な肉体をともなった生が、有限であることだけではないのか。
量子の世界の例を引くまでもなく、この世は不確実なものに満ちている。
だいたいが、鍛え抜かれたサラブレッドが2,400mの距離を疾走するのだ。
2,400m?
体力測定の「持久走」よりも長い距離だ。
それだけ走って、たかだか数十センチ、ときには片手を広げた大きさにも満たぬ数センチの差を見て、私は一喜一憂しているのだ。
不条理だ。
けれど、その不条理さこそが人間らしさでもある。
それこそが人間らしさであり、人生のスパイスだ。
確実なものなんかない。
はみ出していい。
理に適わなくていい。
ちゃんとしなくていい。
小利口になるな。
もっと自由でいい。
理不尽を、非合理を、不確実性を、不条理を、愛せ。
人間を、愛せ。
令和元年のダービーを思い出すたびに、私はその声を聴く。
そうだ、もっと。
もっとだ。
もっと、人間らしく生きろ、と。