桜とともに出会いと別れは繰り返すように、
行く川の流れは絶えないように、
季節は止まらずめぐるように、
同じ場所には留まらないのが、人の世の常。
いくつもの別れを経験しながら、
川は大きくなり、海へと流れていく。
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水無月終わりの週末は、雨模様だった。
「あまり雨が降らず、梅雨らしくないね」と幾人かの友人たちと話していたところだったが、気づけば天気予報は雲と雨のマークだらけになっていた。
気まぐれな梅雨空である。
振り返ってみれば、そんな空模様のようにすっきりしない、6月の私の心模様だった。
梅雨の合間の五月晴れの日もあれば、
いつまでも泣き止まないような雨の日もあれば、
刺すような日照りの日もある。
それで、いいのだと思う。
出てきたものを否定しない。
五月晴れの日にたくさん傘を抱えたり、
雨の日に傘も合羽も持たずに遠出しようとしたり、
そんな風に、自分の内から湧き出てくるものを否定しない方がいいのだろう。
身を任せていれば、そのうち湧き出てくるものも、きっと変わる。
この空模様のように。
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はじめは、自転車のタイヤから空気が抜けた。
雨の中、合羽を着た息子とその自転車を押して自転車店に持ち込んだところ、「虫ピン」とやらの破損だそうだ。
パンクもしているかもしれないが、一度「虫ピン」を交換するので、様子を見てほしいとのこと。
気付けば、その自転車にもう5年も乗っていた。
経年劣化と言われても、全くおかしくない年数が経っていた。
次に、朝顔の支柱を買おうと、息子の好きなホームセンターを訪れた。
以前訪れたときと様相が変わっているのに戸惑っていると、壁の貼り紙が目に入った。
「28年間のご愛顧、誠にありがとうございました」
訪れた日の翌日に、閉店とのことだった。
28年間という長い歴史に幕を下ろす…いつも私は、こうしたなくなるもの、失われるものを見ては、「その」ホームセンターの喪失に心を痛める。
何度も訪れた私にとっては、何か自分の一部がなくなったように感じられるのだ。
さらには、久しぶりに外食をしようと訪れた近所のファミレスは、「本日休業」という看板を掲げていた。
ネットで調べると、訪れた前日までで閉店したらしい。
息子たちの誕生日の月に利用して、誕生日サービスとしてロウソクを立てたクラシックショコラを出してくれたあの店は、もうない。
笑顔でケーキをサーブしてくれた、あの店員の方は、どこへ行ったのだろう。
食べるだけなら、他にお店はある。
それでも、私は「その」ファミレスの不在を嘆く。
そして、極めつけは去年の夏から育てていたカブトムシが、とうとう天に召された。
自然のものよりずっと早く、5月のGW前に羽化して以来、約2カ月近く元気にその姿を見せてくれた。
幼虫の頃から育てていたカブトムシとの別離に、息子は深く悲しんだ。
綺麗な土を入れた少し小さめの虫かごに移し、好物のゼリーをお供えして、しばし荼毘に伏したのちに、埋葬しに行くことにした。
別れがあろうとなかろうと、
何があろうとなかろうと、
人生という大きな川は止まらず流れていく。
それでも、
別れと不在、喪失は、いつも私の胸を締め付ける。
同じものは何ひとつとしてなく、「この」ホームセンター、「その」ファミレス、「あの」カブトムシ、という固有名詞でしかない。
一般名詞のホームセンター、ファミレス、カブトムシがいくらたくさんあったところで、何の慰めにもならない。
「人」との別れが寂しいのではない。
「あなた」との別れが寂しいのだ。
水無月の終わりとともに、訪れたいくつかの別れは、
私にその寂しさの理由を教えてくれたような気がした。
まだ、しばらくぐずついた空は続くようだった。