とかく人は、生きる中で選択に迷う。
やるか、やらないか。
行くか、退くか。
伸るか、反るか。
レイズか、ドロップか。
二択のうちのいずれかにある正解を選ばないといけないと思うとき、人は迷い、選択に怖れを抱く。
けれども、その選択がどちらも正解だったり、どちらも不正解である場合だってある。
大切なのは、どちらが正解かで悩むことよりも、怖れよりも喜びから選ぶことなのかもしれない。
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子どもたちが小学校に通うようになって、日々の勉強を見ていて思う。
自分の好きなことをさせてくれていた保育園とは異なり、唯一の正解を求められるようになるのだな、と。
正解主義。
それ自体が悪いことでもないのだが、少なくとも義務教育の9年間、それを続けていくと、やはり人は正解を探し、それ以外は間違いであるという価値観を強く持つようになるのだろうと思う。
私自身も、それはそれは根強く持っている。
至極当たり前の話だが、人が生きる上で正解/不正解なんてものは簡単には言えない。
人間万事塞翁が馬、の通り、後から振り返ってみると正解なのか不正解なのかが、真逆になってしまうことは、いくらでもある。
就職活動で志望していた業界に受からなかった。
渋々就職した先の会社だったけれど、仕事を実際にやってみると面白かった。
成果が出だすと同僚たちに疎まれるようになり、異動願を出したけど通らなかった。
続けようか迷っていたところ、取引先の新しい担当と恋に落ちた。
俄然やる気になっていたら、向こうは全然本気でなかったようであっさりフラれた。
ひどく落ち込んでいたら、同僚が気にかけてくれて人の優しさが身に染みた。
仕事で恩返しをしようとしたら、今さら異動願が通ってしまった。
何で今ごろと嘆いていたら、実は異動先の長が自分の仕事ぶりを見て引っ張ってくれたと聞いた。
意気に感じていたら、そのやり手の上長が横領で突然いなくなってしまった。
…さて、何が正解なのだろう。
ある一点では不正解に思えたことは、後から見れば「あれがあってよかった」と思えることはいくらでもあるし、その逆も然りだ。
だとするなら、必要なのは「どれが正解か悩み、不正解を怖れる」ことよりも、喜びの中で選択を続けることではないのだろうか。
正解か不正解かは分からないし、後からいくらでもひっくり返るが、喜びの中にいることならいつでもできる。
正解/不正解を分けるのをやめる。
それは、二元論をやめる、ということと同義なのだろう。
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「我思う、故に我あり」の命題で知られる19世紀の哲学者・デカルトは、「物心二元論」を唱え、その考えは近代の合理主義の礎となった。
「物心二元論」とは、心や精神といったものと、ものや身体といったものを分けて捉える考え方で、それ自体はデカルト以前の古くからあった考えだ。
デカルトの唱えた「物心二元論」では、人間という存在を、「精神」という実体と「身体」という実体に切り離し、そのうちの「精神」が主体であり、「身体」は客体(つまりは精神に従属するもの)と位置付けたことが重要な点である。
その考え方の延長線上に、人の身体を部品のように見立てることが可能になり、臓器移植といったことが可能になっていく。
そして「精神」を持たない人間以外の存在(動物や自然など)は、「身体」と同じ機械仕掛けで動くものであり、原因と結果という因果律で説明がつくものだという機械論にもつながり、それはあのニュートンの古典的物理法則の発見にも影響を与えたとされる。
こう書くと、精神的にしんどいと身体に表れたり、病気が治らないと気を病んでしまうから、身体と心はつながっているんじゃないか、という考えが出てくる。
けれども、「つながっている」という考え方自体が、すでに「二元論的」な考え方なのだ。
「分離」しているからこそ、「つながれる」のだから。
はじめから一つなものは、つながりようがない。
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正解も不正解もない。
それを求めてしまうときは、大きなものから分離しているとき。
喜びの中にいること。
安らぎの中に揺蕩うこと。
それが難しく感じるときは、ただ温かい飲み物を淹れて、ほっと一息つくところから始めようか。