大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

ものがたりを書くことへの怖れを越えて。

kappou-oosaki.hatenablog.jp

こちらのエントリーに書いた通り、ものがたりを書こうと思います。

振り返ってみれば、そもそもこのブログを書き始めた最初のエントリーに、「少し長い物語を書きたい」と書いていました。

あれから約2年。

「書く書く詐欺」もいいところです。

一年ほど前に、酒の勢いに任せて(あのときはまだ飲んでいた)小説を書いたことがありました。

けれど、シラフで書くことは難しく、途中で放り投げてしまいました。

ここで心模様や書評を書くことはできるのに、なぜフィクションや物語を書くことにものすごく抵抗があるのだろうか。

ここのところ、そんなことを考えていました。

ここで書くことは、ある程度「書くこと」「書かないこと」の選択ができるのかもしれません。

言い換えれば、「外に出していいもの」「外に出してはいけないもの」という境界を切ることができまるのかもしれません。

けれども、フィクションではそれが難しいように思います。

「書き手」の持っている世界観、前提、思い込み、女性観、夢、願望…そういったものが、すべてそのフィクションを通じて現れるように思うのです。

それはフィクションという虚構の世界だからこそ、逆に「書き手」の持つ世界観がリアルに輪郭を持って現れる。

私が持っていたフィクションへの怖れとは、この「自分の世界観」を知られることへの怖れなのだと思います。

ある方が、「文章を書いて公開する、というのは裸で外を歩くくらいのものなのよね」と仰っておられました。

まさにそう思います。

結局、それは「裸の私は汚く、醜く、きっと周りから攻撃される」という思い込みなのだろうと思います。

自己価値の低さと、世界への不信感。

それこそが、フィクションを書くことへの怖れなのでしょう。

その思い込みは、消えたわけでも、なくなったわけではありません。

おそらく、非難されることも、無視されることも、軽んじられることもあるかと思います。

まわりに10人の人がいれば、2人に好まれ、6人に無視され、2人に嫌われるのが人間です。

公開すればするほど、母数は10人より大きくなり、必然的に嫌われる人数も増えるのでしょう。

それでも。

私は、書きたい。

私の言葉を、好きだと仰って下さる方のために。

書くことを続ける才能を与えてくれた、両親のために。

なんだかんだ騒ぎながら、ようやく自分の人生のスタートライン、というところです。

長期的なビジョンも、書いた後のことも、何も考えていません。

とりあえず、書きたいと思います。

その後のことは、書きながら、あるいは書いてから考えようかと思います。

サボりがちな私のこと、毎日ここでその進捗を下の欄で報告させて頂きたいと思います。

どうか応援を賜りますよう、お願い申しあげます。